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そう嘆いて藤吾郎が目に涙を滲ませた時、ぱしゃん、と水の跳ねる音がした。
藤吾郎は音のした方に顔を向ける。
視界に入るのは水瓶と畳に転げ落ちた柄杓。その傍らにひっそりと置かれている母の形見の漆箱。
藤吾郎がそうっとそこに歩み寄ると、漆箱の中でなにかがゆらゆら揺れている。
真っ赤な金魚だ。
「緋色…?」
藤吾郎が呟けば返事をするように赤い金魚が漆箱の中でくるくる泳いだ。
「あ、あ……いなくなっちまったのかと思った…」
藤吾郎は涙をこぼして脱力し畳に座り込んだ。
あの優しさを、温もりを味わってしまえば二度と孤独には帰れない。
もう緋色がいなければ生きていけない。
「でも、おめえは俺から離れねえって…言ってくれたよな…」
そう言って藤吾郎は頬に伝った涙をひとしずく指で掬い、漆箱の中に垂らした。
赤い金魚はその指に寄ると何度も何度も口付けた。
旦那は泣き虫だなあ、とあの笑い声が聞こえてくるようだ。
藤吾郎は微笑んで漆箱に顔を寄せた。
「愛してる」
その囁きに答えるようにぱしゃん、ともう一度赤い金魚が跳ねた。
藤吾郎はもう独りではない。
愛する男が傍にいる。
「今日も随分と暑くなりそうだ。なあ、緋色」
木製の格子窓から差し込む日差しに藤吾郎は目を細めた。
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