67人が本棚に入れています
本棚に追加
緋色は柄杓の当たった腕を軽くさすると、傍に落ちた柄杓を拾いあげた。
「気を悪くさせたならごめんよ。…かわいそうに、そんなに怯えないで。何か辛い過去があるんだね。こんなところに独りぼっちで隠れ住む理由がさ」
肌蹴た着物もそのままに、緋色は藤吾郎に歩み寄った。
怯えて身を引かせた藤吾郎を宥めるように目で説き伏せ、両手を差し出す。
「なあ、話してはくれないかい。旦那のそんな辛そうな顔は見ていられない」
緋色は震える藤吾郎の大きな体を抱きしめた。
緋色の体はどこかひやりとしていて冷たい。だが、藤吾郎はその冷たさを心地よく感じた。
まるで穏やかな水の中にいるような、そんな感覚だ。
気が落ち着いていく。
「…が…」
「ん?」
「…俺にも好い人がいたんだ、もうずっと若い頃だがな…。おめえのような色男だったよ」
藤吾郎はぽつりぽつりと小さな声で話し出した。
「俺ぁ駆け落ちもんでよ、そいつと暫くここに隠れ住んでたんだ。人目んつくとまずいだろう」
衆道の駆け落ち者がまともに町に馴染めるわけがない。すぐに悪い噂も立つだろう。
慣れ親しんだ故郷から出てきた二人には、それは不便で侘しい生活だった。
しかし藤吾郎は幸せだった。愛する男がいさえすればどんな生活も苦ではなかった。
最初のコメントを投稿しよう!