一、『みにくい鶴の子』

3/3
56人が本棚に入れています
本棚に追加
/35ページ
 半円に程近い月に雲がかかって、アルファベットの若い棟から闇にのまれていく。F棟の屋上に影が襲いかかるとき、トガメの揺れはぴたりとやんだ。相撲取りが四股を踏むときのように、おしりの重さで後ろに転がらないよう、地面に手を置いてから膝をつく手順を注意深く守った。  脂汗の浮くにきびだらけの団子鼻が下着に到達して、私は急いで息を吸う。月が完全に隠れると、トガメの丸みのある境界線は暗闇になじんで消えていく。  ふだんはなにをするにもうすのろなのに、トガメの口はどの指より器用に動く。ぶつぶつとひとりごとを覆うたらこ唇で、布の向こうから私を押しひらく。 「だめよ、そんなの……」  かたちを確かめる舌にそって熱がこもる。高めようとするには弱い。菱形に交差する金網に指を引っかけて耐える。昨日はフェンスで中指の爪を割った。また爪が欠けるかもしれない。 「だめ……っ」  どこかで遠雷が鳴る。さかりのついた猫があえぐ。狭苦しいと呻くような、逃げ出したいと嘆くような。ここに来たばかりのころは赤ん坊が引きつけを起こしているかと思ったけど、すぐに違うとわかった。鳴き声がだれのものかわかるのはF棟を訪れたことのある客だけだから、屋上の声を聞いても、私のママと間違えるだろう。
/35ページ

最初のコメントを投稿しよう!