3.花のあなた

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 一週間が経っても、あの匂いは残っていた。 消えないどころか、今では大輔の身につけるものすべてから、香りを放っている。 私の体にさえ匂いがこびりついているような気がして、心穏やかではいられない日々が続いていた。 まるでそれまでも顔見知りだったかのように、匂いの先にいる知らない女性を思い浮かべることができてしまう。 その女性は私とは全く正反対の、私にはないものを全て持っているような女性で。 どこをどう比べても、大輔がその女性を選ぶのは当然のように思えて。 気を紛らわせることに意識を集中させていないと、途端に大きな声を出して叫びそうになるほど、心の中を埋め尽くしている何かが今にも溢れだしてしまいそうだった。 「ただいま」 「おかえり。今日も遅かったね」 鍵穴に鍵を差し込む音が響いて玄関に向かうと、疲労が全身から滲み出ている大輔がゆっくりとした動作で靴を脱いでいるところだった。 「最近残業多いんじゃない?」 時計は二十二時を回っている。 残業でこんなに帰りが遅くなるのは、すでに今週三日目だ。 今までにだって残業の日はあったけれど、こんなに続いたのは今回が初めてだった。 「うん・・・今ちょっと、人手足りてないんだよ」 「そっか、お疲れ様。無理しないでね」 「うん、ありがとう」 大輔は首の後ろを右手でさすりながら、彼と目が合うことはなかった。 私の横を通り過ぎていくとき、周りの空気が一瞬で華やいだ。 空気だけが一瞬で、私なんかは置き去りにして。 リビングに消えていく大輔の背中を見ていると、本当に仕事が忙しいんだと思う。 わかっているつもりだった。 忙しくて電話に出ないこともあったし、メールの返事がなかなか来ないこともあった。 会社の付き合いで飲みに行くことも、休日に私が面識のない友達と出かけることだってあった。 それまで気にしたことなんてなかったのに、ほんの少しの些細なことでも引っかかるようになったのは、間違いなくあんなことがあったからだった。 「ご飯、食べるでしょ?」 遅れてリビングに行くと、大輔は寝室のドアノブに手をかけているところだった。 「あ、ごめん。先輩から差し入れもらって食べたから、今日はもういいや。明日の朝食べるよ、ごめんな」 「そっか・・・わかった」 「風呂、先に入る。明日も早いんだ」 一瞬視線がぶつかったが、大輔はすぐに目線だけを逸らした。 そして今度は左手で、自分の首に触った。 このたった数秒の間に、私の心がまたささくれ立つ。 大輔と一緒に暮らし始めてから、気付いたことはたくさんある。 朝起きてまず最初にその日着る服を決めること。 情報番組の占いは欠かさず見ること。 靴下は絶対に左から履く、きれい好きで食べ終わったらすぐに食器を洗わないと気が済まない、寝るときは必ず右側を向く。 そして大輔が首を触るのは、嘘をついているときの癖。 私のお気に入りだったグラスを大輔が不注意で割ってしまい、同じものを買うまで何とか隠し通そうとしていたことがあった。 明らかに様子のおかしい大輔を問い質してわかったとき、彼が焦りながらずっと首を触っている姿はそれまでにも見覚えがあった。 その行動の前後の出来事を思い起こせば、それが決まって大輔が何かを隠そうとしたり嘘をついたりするときだということは、自然と結びついた。 あまりにわかりやすい仕草に気付いたときは笑ってしまったけれど、今は到底笑えない。 大輔は同じグラスを買い直して謝ろうとしていたらしいが、結局割れてしまったグラスは元には戻らないし、買ったお店をもう一度探したけれど同じものは見つからなかった。 でもお揃いのグラスを買うことにして、それを今では大事に使っている。 壊れてしまったのが『物』ならば、たとえ元には戻らなくても、新しく買ったり、代わりを探すことだってできる。 しかし、今の大輔を問い質してきっと壊れてしまうのは、形のある『物』ではない。 一体どれが嘘なんだろう。どうして嘘をつくのだろう。 差し入れを食べたこと。本当はあの女性と食事してきた? 明日も朝が早いこと。本当はもう一緒の部屋にいるのが堪えられない? 最近ずっと残業続きなこと。本当はあの女性といる時間を作るため? 脳内に次々と疑念が浮かんできたけど、浴室へ向かう大輔の背中を見つめたまま、私は立ちつくしていた。 壊してしまうことが怖い。 壊れた先がどうなってしまうのか、わからなくて怖い。 大輔のことがわからなくて、怖い。
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