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「唯さん・・・」
その声があまりに切なくて、私の胸はギュッと締めつけられた。
覚えていないわけがない。
あの頃の私のすべてだった。
やっと過去にできると思っていたのに。
私は、ゆっくりと頷くだけで精一杯だった。
それを見た彼はようやく緊張から解放されたのか、安堵の息をもらす。
そして、聞き覚えのある柔らかい声で言った。
「良かった。あと、俺の勘違いならそれでいいんだけど・・・唯さん、大丈夫?」
弾かれたように顔を上げて、それまで必死に見ないようにしていた彼の瞳に、捕らえられてしまった。
「顔白いし、ちょっとやつれてる。ご飯ちゃんと食べてないだろ。何かあった?まさか、兄さんと?」
「何もないよ。顔はまだメイク落としてないし、それに、今ダイエットしててちょっと細くなったように見え「俺の目見て言って」
図星をつかれて咄嗟にそらした視線を少し強引に戻され、でも私の頬を包む彼の両手はとても温かかった。
身に覚えのある体温は、また私の心をかき乱す。
もう会わないつもりだった。その覚悟を持って、離れたはずだった。
予期せず再会してしまったあの日から、こんな日が来るのではないかと怯えながらも、どこかで期待している自分がいた。
そしてその期待通りに目の前に現れた彼は、あの頃と変わらない温もりで私に優しく触れる。
一瞬にして瞳を濡らした涙は、溢れて止めどなく流れ出した。
あぁ、私は泣きたかったんだ。
受け入れはじめているなんて、落ち着いてきたなんて嘘だ。
心はとうに限界を超えていた。
防衛本能が働いたのか、考えないようにしていただけ。
今までの思いを吐き出すように私は泣き続け、彼は重ねられた私の手を握りかえした。
しばらくすると、どっぷり浸っていた二人の世界から引き戻すように、申し訳なさそうな声が聞こえてきた。
「あの、すいません。ここ通ってもいいですか?」
声の主は、何度か見かけたことのある同じ階の住人の女性だった。
ドアを開けたままで話をしていたため、先に進めず立ち往生していたらしい。
「どうぞどうぞ。すみませんでした」
人が一人通れるだけのスペースを確保して彼が謝ると、その女性も終始気まずそうに頭を下げながらその場を去っていった。
一体いつからそこにいたのか、話を聞かれていたのではないかと思うと、気が気でない。
あれだけ溢れていた涙も止まって、二人の間に微妙な空気が流れていた。
このままではまた他の住人に迷惑をかけてしまうし、変な噂を立てられてしまっても困る。
かといって、きっと酷い顔をしているであろう今の状態で外には出られない。
そう判断して、そっと彼の袖口を掴んで玄関へと招き入れ、ドアを閉めた。
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