12人が本棚に入れています
本棚に追加
玄関を開けていつもより大きめに、ただいま、と声を出すのとほぼ同時に、奥からパタパタとスリッパで母が駆けてきた。
「おかえりなさい。初めまして、立花唯さん?」
「あ、はい。立花です、初めまして」
深くお辞儀をする唯から母はずっと目を離さないでいた。
僕のことは一切、眼中にないようだった。
唯も笑顔を心がけてはいるようだけど、普段のそれとも、接客中のそれともどこか違っていた。
さっきより幾分、血が巡りだしたようにマシな顔色にはなった。
でもリビングのソファに座ってからもどこか落ち着かない様子で、緊張ももちろんあるんだろうが、予定より早めに帰ろうかと考えていた。
「はい、お茶どうぞ」
母はずっと楽しそうに、ニコニコと笑っている。
「あ、ありがとうございます」
「今日はゆっくりしていくんでしょ?お昼は用意してあるんだけど、夕飯はどうする?作ってもいいし、外に食べに行くのもいいわね」
「母さん、今日はそんなに長い時間・・・」
普段より口がなめらかな母は、本当に今日を楽しみにしてくれていたのだろう。
申し訳ないと思いつつ、用意してあるという昼食を一緒に食べたら帰ると伝えるため口を開いたら、玄関から物音が聞こえてきた。
インターホンは鳴っていない。
父は今出張中だと聞いていた。
だとすると、この家に帰ってくるのはあと一人。
母も不思議そうにしながら恐る恐るリビングから廊下に出ると、安心と驚きの声を上げた。
「あら、おかえり」
「ただいま」
「どうしたの。今日帰ってくるなんて言ってた?」
「いや、ちょっと荷物取りに寄っただけだから」
久しぶりに聞いたその声は、覚えているよりも少し低くなっているだろうか。
足音がこっちに近づいてくる。
家族と顔を合わせるだけだというのに、僕は若干の息苦しさを感じた。
ドアのガラス越しにその姿が見えると、僕の心臓はどくん、と跳ねる。
それと同時に、隣に座っていた唯が勢いよく立ち上がった。
「ごめん、大輔。やっぱり体調悪いから、私先に帰るね」
とっさに掴もうとした唯の腕は、あと数センチのところでするりと離れていった。
うつむいたままで、その表情はわからなかったけれど。
でも明らかに、唯は動揺していた。
ドア付近に立つ二人の間を縫うようにして、脇目も振らずに出て行く。
僕も急いで彼女を追った。
「おい、唯!」
訳がわからなかったがとりあえず止まってほしくて、声量なんて考えずに名前を呼んだ。
すると、それは確かに聞こえた。
誰に届けるわけでもない、小さくて、ほとんど吐息のような声だったけれど。
「・・・唯?」
僕は思わず足を止めて、声がした方を見た。
僕の視界に入った弟は、目を見開いて驚きを隠せないでいた。
しかしその瞳の奥には、かすかに光が宿っているように見えた。
その光がなんなのか、気になっただけで胸が痛むけれど。
まずは唯を追いかけるのが先だ。
「母さん悪い、また連絡する」
心配そうにしている母にそう告げて、僕は家を飛び出した。
勢いよく出て行ったわりに、唯はそう遠くまで行っておらず、すぐに捕まえることが出来た。
何から聞くべきかゴチャゴチャした頭の中を整理しつつ、ただ立ち尽くしていた唯の目の前に回り込んで、息を呑んだ。
綺麗な涙だった。
いっぱいになって溢れてしまったそれは、頬を伝っていた。
動揺していたと思ったのに、今はまるでそれを感じさせない。
この姿を、僕はどこかで見たことがある気がした。
あ、そうか。あの日だ。
月明かりの下で静かに泣いていた唯と、重なった。
四年も前になるあの時の唯が、今目の前にいるようだった。
違うことといえば、あの時の僕は高鳴る胸を抱えて空をも飛べそうだったけれど、今は水を打ったようにひどく冷静だ。
そうか、そうだったんだ。
最初のコメントを投稿しよう!