ノスリという男

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 年中薄暗い廊下の中央は少し広い空間になっていてエレベーターホールを兼ねている。ノスリはひとつしかないエレベーターの扉の前に立つと、ボタンを押して階数の表示ランプを見上げた。ひとつ上の階を表す「5」の数字の点灯が消えると、ノスリの心臓は鼓動を速め、左右の手のひらがジワリと汗ばんだ。二十の半ばを過ぎた男がみっともないなとノスリは自嘲する。まだ数秒の猶予はあるだろう。よし、ひとつ深呼吸をするか。ノスリは大きく息を吸い込んだ。  そこへ、ポーンと間の抜けた音を立ててエレベーターの扉が開いた。ノスリはビクリと体を震わせた。降りる人がいないか確認するような体で中に視線を走らせたノスリは、お目当ての顔を見つけて時間が止まったように錯覚した。  それは長い黒髪を後ろで束ねた若い女性だった。ほっそりした体は地味な黒の上下に包まれていて、両手でバッグとコートを抱えている。五、六人の乗客の中で女性は彼女ただひとりだったが、背丈といい服装といい他の乗客とよく似ていた。その顔は伏せ気味で憂いを帯びており、左の目尻にある泣きぼくろが印象的だ。壁際にひっそりと立って床に視線を落としている姿は見る者に薄幸そうな印象を与えた。  彼女は上階の会社に勤めている会社員だと思われるがノスリは名前すら知らなかった。ただ一度、何かの拍子に二、三の言葉を交わした程度の関係でしかない。先方はノスリのことをとっくに忘れているか、あえて素知らぬ振りをして関わり合いになるのを避けているのか、ノスリがエレベーターに乗り込んでも何の反応も示さない。
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