タブラ・ラサ

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正直に言って、村山は然程良い遺伝子を持っているとは思えなかった。勉強はどれも中途半端で、恋愛は中々上手くはいかない。自らに対する期待値はどんどんと低くなっていく。やりたいことは見つからないし、自分が何者なのか分からなくなっていく。 ひと昔の若者ならば、自分探しの旅に出ていたかも知れない。しかし今は、遺伝情報がある。世界中を旅して回らなくても、既に答えは自分の中にあるのだ。 老夫婦は仲良く並んで座ってバスに揺られる。2人はよく似ていて、どちらが夫でどちらが妻か遠目では分からないほどだ。彼らが若かった頃には未だ遺伝子解析はそれほど一般的ではなかったはずだ。奇跡的に相性の良い遺伝子同士が結ばれたのか、あるいは長年の習慣によって同じような空気を共有するようになったのか。 昔の人は遺伝情報を知らずに、手探りで人生を作っていったのだ。それは現代人の、特に若者にとっては驚くべきことだ。そんな無鉄砲に生きることなど、もはや想像もつかない。 村山はこれから知ることになる自分の遺伝子について思いを馳せる。この20年の経験では、あまりパッとしない遺伝子であることは間違いないが、もしかしたら気付いていない才能が見つかるかも知れない。期待と不安と。 その両方を抱いてバスに揺られる。 市役所までは10分ほどの道のりだった。最初の2,3分のところで老夫婦はバスを降りた。バスを待っている時間を考えたら歩いた方が早かったのではないかと思うが、それほどこのバスが彼らにとって身近な足になっているということだろう。 村山は学生と2人きりになったバスで、ふと、自分の遺伝子について知るべきか否か考える。 大抵の若者は自分の遺伝情報を上手く自分の人生に利用しているが、中には頑なに拒んで情報を捨て去ってしまう者もいた。その理由は、信仰の妨げになるからというものから、ただ知るのが怖いというものまで、様々だ。村山は遺伝情報を受け取る目前となって、彼らの気持ちが分かったような気がする。何だか自分の人生を遺伝子に乗っ取られてしまうような、そんな不安だ。 糖と四種類の塩基からなる二重らせん構造。見たこともないそんな構造が自分の身体の中にあって、自分の人生を決めてしまうなんて、未だに信じられないところもある。
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