第3話

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第3話

 入口のハロウィンフラッグの具合がよろしくなかった。すぐ外れて落ちてくるのだ。 「サカイちゃんそれ、外していいよ」と店長がいった。 「でも平井さんは今日まで飾れっていいますよ」 「カボチャの電飾はあるじゃん。あと平井さんにも連絡したけど今日は早く閉めるから。嵐が来るからさ」  本来ハロウィンは十月の最後の日、つまり今日のはずだが、都心では先の週末にパリピの若者が暴動まがいの出来事を起こしたという。一方この商店街は静かなもので、もうカボチャの提灯を外した気の早い店もある。  ひとつは雲行きが怪しいせいで、天気予報が季節外れの爆弾低気圧が日本に接近していると警告を発しているのだった。関東では夕方以降に大型の台風と同じくらいの雷雨や強風が通過するというのだ。おかげで交通機関は早めの運休を決め、都内の百貨店も早じまいするらしい。  今は快晴の秋空なのに、このあと嵐が来るなんてミチルには信じられなかった。しかし爽やかな青を背景にカボチャが邪悪に笑うのを眺めると、急に不吉な感じが迫ってくる。 「どしたの? 変な顔して」店長が唐突に聞いた。 「……ハロウィンのカボチャって怖い顔ですよね」 「そりゃハロウィンって日本でいえばお盆みたいなものだから。死後の世界から締め出された魂がカボチャに悪魔の火をいれてフラフラしてるのが元だし、多少怖いのも道理でしょ」 「……締め出されるんですか」 「世界のどこにもよりどころのないダメ男の最後の姿なんだよ」  雑学の豊富な店長のお喋りをBGMにミチルは外したフラッグを畳む。何気なく歩道を振り返ったとき視界にカボチャ色の自転車が入ってきた。酒井の自転車だとすぐにわかったが、平日の十時を回る頃に彼を見るのは初めてだし、スーツも着ていなかった。  ミチルの心臓がドキドキと打ったが、酒井の顔はまっすぐ前を向いていた。きっとこちらには気づかなかっただろう。  二人で飲んだ晩以来、酒井は一度も店に来なかった。ミチルは彼の自転車が通るのを何度も見たが、眼が合うことはなかった。  あの晩のことをミチルは忘れていない。翌日の二日酔いのひどさも含めて。  これまで、女の子には近寄りにくい、それだけしか考えたことがなかった。だから酒井の手に引き寄せられたときも――たぶん嫌ではなかった。  もともと自分はものすごく世界から取り残されていたのかもしれない。  天気予報は大当たりだった。昼を過ぎて急に風が強くなり、三時には濃い灰色の雲がみっしりと空を覆っていた。周囲が不気味に薄暗く、店のひさしに下がったカボチャの提灯がやたらと明るく光っている。南の方ではすでに雷雨がはじまったらしい。客はちっともこなかった。六時前に店長は「こりゃいかん」といってアルバイトを返し、閉店処理をはじめた。 「最後、やっておきますから」 「悪いね。この風じゃ家が心配でさ」  店長が帰ったとたん土砂降りの雨がはじまった。あちこちで雷も鳴っている。ミチルはシャッターを降ろし、カボチャの提灯のことを思い出した。また店の表に出て外した提灯をビニール袋につっこむ。嵐で濡れた邪悪な笑顔に理由もなく不安がつのったし、風に流された雨のせいでもうびしょ濡れだ。  寒気を感じてふりむいたとき、雨の中を進むカボチャ色が見えた。  酒井だ。自転車を押しながらのろのろと歩いている。足元を向いた顔がふいにあがった。眼があった。  ミチルは思わず声をかけた。 「……大丈夫ですか?」 「ああ。うん。あんまり」 「タオル貸しましょうか」  土砂降りの中にいる人に間抜けなことをいったものだ。酒井は片手をあげて「いいよ。また濡れるし」という。ミチルはかまわず歩道に出た。 「ここ雨あたらないんで。入ってください」  その時何かが近づいてくるような気配がした。  空の一部が鈍く光った。轟音が鳴った。ふっとあたりが暗くなる。ミチルは途惑って顔をあげる。街灯も信号も消えている。 「停電?」 「……かな」 「入ってくださいよ。危ない」    裏口を入ったところに酒井の自転車を置いた。スマホの明かりで四階まで階段を上る。酒井はのろのろとついてきた。ミチルは自宅のドアをあけ、他の明かりはないかと考えてカボチャのことを思い出した。昨夜三階の倉庫にワゴンの売れ残りとカボチャのキャンドルを放りこんだはずだ。階段を引き返したとき、踊り場の窓の外でピカッと稲妻が光った。 「なんか、すごいね。お祭りみたいだ」  タオルで濡れた髪を拭きながら酒井がいう。  ふちをギザギザにカットした半月の開口部からオレンジと黄色の光がこぼれる。ミチルが動くたびにロウソクの炎が揺れ、壁に不気味な影がおちる。光と影は座卓に向かい合って座ったミチルと酒井を取り囲む。 「ミシンがある」と酒井がいった。 「ああ、うん」 「自分の服も作るんだ」 「まあ」 「アパレルとか行かないの?」 「好きでやってるだけだから。ファッションの学校とか行ってないし」 「もったいない。すごいのに」  なんとなく酒井にいつもの口調が戻ってきたような気がした。カボチャ色の光のせいか、それとも薄暗くて顔がよく見えないからだろうか?  外の雨音はあいかわらず大きく、雷もまだ鳴っている。「俺のスマホ大丈夫かな」と酒井がいう。 「濡れた?」 「拭いたけど」 「停電、長いね」  酒井が首をゆらりとふった。影が揺れる。 「何か飲む?」ミチルの問いに「いいよ」と答えた。 「コーラとかチューハイならある」 「いや……酒はいいや」  グラスがひとつしかなかった。ペットボトルのコーラをマグカップに注ぐのは変な感じがした。 「この前はごめん」と酒井がいう。  ミチルはマグカップの表面をみつめていた。コーラがまるでコーヒーのようだ。ミチルはコーヒーが苦手なのだが。 「どんな感じ?」  そうたずねた。酒井は怪訝な眼つきでミチルをみた。 「何が」 「男とつきあうって」  酒井はグラスを置いたままだった。揺れる光の中でコーラの泡がはじけて光った。 「なにそれ、興味あんの?」  ミチルは黙った。酒井は続けた。 「それとも俺をいじめてる?」  ミチルは首を振った。酒井は笑った。壁に映るカボチャの影から邪悪な気配が立ちのぼる。突然座卓の下から足が突き出され、ミチルの膝に触れ、もっと奥まできた。 「こんな風に触ったりすんの」  反射的にミチルは体を引いた。膝に触れた足はすぐにいなくなった。 「本気にするからやめとけよ」  酒井がぼそぼそといった。彼らしくなかった。 「男に興味があるんじゃないんだ」ミチルはつぶやいた。 「酒井さんに興味がある」  酒井が驚いたようにこちらを見た。雨の音が聞こえた。雨の音しか聞こえなかった。 「そっちもサカイだろ。ミノルって呼べよ」  しばらくして酒井がいった。 「僕はミチルだ」 「ああ。覚えてる」
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