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平安初期には栄えていた東寺も、
平安後期には徐々に衰退の一途を辿っていく。
藤原一族で栄えていた平安時代も後期になるにつれ、武士の威力が増してくるようになった。
各地で争いが起き、世は力で力を伏すような
時代へとなっていった。
平家と源氏の物語はあまりにも有名だが、
平安京にも平家は住んでいた。
1181年、養和元年
この年と翌年は飢饉による京都中に餓死者が出たとされている。
左京の地だけで、推定4万2千人…
人々は東寺に来ては、この状況をなんとか打破できないかと祈りにいのったそうだ。
その頃から弘法大師は「弘法さん」の愛称で親しまれるようになったと言われている。
そんな中、平家と源氏の合戦は続き
東寺も西寺も衰退の一途を辿っていったそうだ。
しかし源氏が勝利し、
鎌倉時代の幕が開けると
これまで衰退していた東寺に復興の兆しが見えるようになったと言われている。
そこには一つこんな物語が隠れている。
実は当時の文覚上人の依頼を受けたことにより、運慶が諸像の修復に着手したと言われているが、
ここには源氏も巻き込むひとつの物語があったのであった。
ちなみにこの文覚上人とは、
平安末期から鎌倉初期にかけて活躍をする真言宗の僧のことである。
一説によると仁安三年 1168年頃
文覚30歳の頃に弘法大師が生まれたとされる神護寺を訪れたとされている。
世の武士達の戦乱で朽ちていたその寺を
目の前にした文覚は、
早速草案をつくり薬師堂を建てて
本尊を安置し、弘法大師が住んでいた納涼殿も再建したとされる。
しかし再建できたのも束の間、
復興作業が思うように進まなかった文覚は
意を決して当時の法皇であった、
後白河法皇の元へいき、当時千石の収入の見込みがあった荘園を
寄付してもらおうと
あろうことか嘆願しに行ったとされている。
「(復興のために)荘園を寄付して下さいっ!!」と言われた後白河法皇は
「はっ?!我に強要するとは何様やと思ってんねん!!」とさぞかし度肝を抜かれたことだろうと思う…
そのことで、後白河法皇の逆鱗に触れた文覚は、伊豆へと島流しになったのであった…
ただ、東寺を建て直したかっただけなのに、
伊豆へ島流しになってしまった文覚…
しかし、神は彼を見捨ててはいなかった!!
なんとこの地で文覚は、平治の乱のときに清盛の義母池禅尼の助命によって辛うじて斬罪を免れた源氏の嫡男、源頼朝と親しくなっていたのである。
あれ、源頼朝って…?!
そうこの源頼朝、のちに京都に鎌倉時代を作るあの男なのである。
ラッキー…?なのかは分からないが、
とにかく文覚は伊豆で源頼朝と仲良くなり
神護寺の復興を約束された。
後に源頼朝が平家や奥州藤原氏の討伐をして勢力を拡大する中で、文覚は源頼朝の寵愛を受けることになる。
なぜ、そんなことを文覚は出来るようになったのか…
色々な資料を読み取るに
伊豆の諸島で仲良くなった二人は平家討伐のために力を貸してくれないかと
頼朝からお願いされたのだと思っている。
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