第2話

2/2
前へ
/6ページ
次へ
「そのままの意味だ。俺は狂い始めている。このままでは、何もかもお終いだ。だが、その缶詰の中に、俺の狂気を閉じ込めることに成功した」  矢継ぎ早に彼は言った。缶詰を見据(みす)える目が真剣だった。  僕はぼんやりと、それを聞いた。  缶詰には、それを開封するための、プルトップがついていて、引っ張れば簡単に開きそうに見えた。 「お前が持っていてくれ。俺は恐ろしい。これを預けることができる人間は、お前しかいないんだ」  返事をする代わりに、僕は鼻をすすった。  少しの間、考えた。それとも、月を見ていただけかもしれない。  やがて僕は酒を飲み、肩をすくめた。 「いいよ」  微笑んで言うと、親友は心底、ほっとしたような顔をした。爛々(らんらん)としていた目の光が、少し和らぎ、肩の力が抜けたようだった。 「ありがとう」  そう言って、彼は立ち上がった。 「もう帰るのか」  十年ぶりなのに。何も話していかないんだな。  重そうなカバンを肩から()げ直し、親友は、さようならとも言わずに、去っていった。  手付かずのグラスと、黒い缶詰が後に残った。  彼は、どこへ行くのだろう。  最後の酒を飲み干して、僕は狂気の缶詰を手にとった。  少しの間、それを手のひらで転がしてみる。  軽かった。とても。  少し笑って、僕はプルトップを引いた。  パカンと軽い音がした。  中には何も入っていない。微かに薄暗い何かが、飛び去ったような気もしたが、それはきっと錯覚(さっかく)だろう。  空っぽの缶詰を(さかな)に、僕は客に出したつもりのグラスから、もう一杯の酒を呑んだ。  カランと氷が鳴った。  さようなら。  僕は声に出して、そう言った。誰もいない、月明かりの()す部屋で。  翌朝の新聞に、彼のことが載っていた。  朝一番の列車に飛び込み、細切れになって死んだと。  雨の降っている朝だった。  そういえば、昨日の月には(おぼろ)な、傘がかかっていたなと、僕は思った。 END
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加