見えてしまった

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 侍は町中を歩いていた。糸屑の量は徐々に増えていき視界の半分以上を覆うようになっていた。誰に聞いても糸屑を見たことある者はいない、つまり、誰もこの現状を共有出来なかった。これは侍の心の中に不安の陰を落とす事に他無かった。 「これはこれはお侍様」 侍に挨拶したのは庄屋であった。その庄屋の顔を覆うように糸屑がひらりひらりと舞い踊る。 「お主、目の前を飛んでおる糸屑が見えぬのか」 「見えませぬよ」 そう言う庄屋の顔の前にはいくつもの糸屑が顔を覆っていた。侍の目にはそう見えていた。 侍は目を閉じて首を振り庄屋の顔を見直すが糸屑が消える事は無い。 「おのれ糸屑! 貴様らはもののけかあやかしの類か!」 侍は刀を抜いた。庄屋はいきなりの凶行に恐れ慄き腰を抜かした。これを見ていた通りすがり達も近づいてはならぬと干潮の海の様にさぁーと引いていく。 「糸屑めが! 拙者の目のみならず民に纏わりついて何がしたいと言うか」 「だ、旦那ぁ」 侍は庄屋の周りに浮き纏わりつく糸屑に向かって刀を振り下ろした。その刃は糸屑を斬ること無く庄屋を斬り伏せた。庄屋の断末魔の悲鳴が天下の往来にこだまする。それから程なく見ていた民も悲鳴を上げながら逃げていく。 「やっと仕留めたぞ糸屑め」 しかし糸屑は鮮血の中倒れる庄屋の体の上をふわぁりと舞っていた。 「仕留め損ないが!」 侍は糸屑を追いかけてひたすらに刀を振り回す。その先に人がいようと構わずに刀を振り回す。無辜の民が次々ともの言わぬ屍となり血飛沫を上げながら倒れて行く、これが戦国の世で相手が敵国の武将であれば阿修羅や獅子奮迅などと褒め称えられるだろう、だが、生憎と今は天下泰平の世。侍のやったことは単なる凶人に過ぎない。結局制圧されるまでに三十人もの無辜の民を斬ったのであった。
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