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田沼町
「田沼町」
都会から逃れて北へ北へと
ボロ車で走って来た。
就職先の寮に荷を置いて、
夜食を買いに表へと出る。夜の田沼町。
ふり仰げば寒々とした月が中天にかかり、
山おろしの冷たい風が、都会の薄着のままの俺の肌を、容赦なくふるわせる。
知らない町、遠い里…。
通りがかりのお屋敷から犬が怪しんで俺に吠えかかる。『はいはい、いま行くよ…』
俺はどこでも異邦人、川崎でも、田沼でも、
そしてあの…ヨーロッパでも。
道を過る婦人あり、「あの、ちょっと…」
弁当屋の場所を尋ねる俺に思いも寄らぬ、
親切極まる道案内と結構な差し出しもの。
法事か何かの帰りだとかで、土産の折詰を「よかったらどうぞ」とばかり、
見ず知らずの俺にくださるのだと云う。
一瞬心細さと寒さを忘れ、人のぬくもりを、
化石のような心の中に甦させられた。
しかし俺のマルドロールなりを知ったなら…?
ふふふ、つまらぬことを…
都会の車上生活からやっと?んだ寮住いの、
畳の上の生活。嬉しくて涙が出そうなほどなのに、
しかしそれをすら冷笑するマルドロールがいる、
俺の中に。人と社会を認めず、自分の価値さえ認めない、いっさいを信用しない、冷たい魂…
それに呼応するように、
人のほとんど通らぬ夜の街に、
冷え冷えとした悪意がうごめく。
「知っているぞ、おまえのことを。この町からもすぐに追い出してやる」と、そう田沼町全体が宣言しているようだ。
いったいどこまで逃げたらこの悪意から逃れられるだろうか?排斥と差別のない、‘みずからのの心の果て’にある、同邦人の住む、その国に行き着けるだろうか?
田沼の月はきっと、
行く先々でかかり続けるのに違いない。
もしかしたら…
あの見知らぬ婦人が差し出した折詰を、
ただありがたく受け取ればいいだけのこと…?
なのかも知れない。
しかしマルドロールは頑なにそれを拒み、
代りに呪詛の和歌をば一首、街に差し出したのだった…
〃田沼町、北へ逃れて見る月ぞ怪しく冴えて犬奴の吠える〟
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