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横の布団を見る。
妻の寝床。老いた僕と同じくらいしわくちゃなシーツ。
もうここで寝る人はいない。
でも誰がなんと言おうと、この家には、もうこの世にいない妻の気配がある。
位牌も仏壇も置いていない。
でも、この家に彼女はいる。僕がここにいる限り。
あんな、暗くて狭い病室ではなく、彼女の生命の痕跡はこの部屋にこそ残っているのだ。
目元に手をやると、指が濡れた。
ずいぶん泣いたんだな。
自分ひとりのための買い物。掃除。炊事。
その虚しさは、たとえようもない。虚しくて辛くて、面倒で下らなくて、やめたくて仕方ない。
窓の外は薄暗いが、朝なのか夕方なのかも分からない。
窓を開ける。二階のこの部屋には、よく風が通った。
しわだらけの僕の手。
不思議なことに、窓を閉め切って静かにしているより、外の世界とこの部屋を繋げた時の方が、妻の存在を身近に感じた。
あと何日、ひとりで生きればいいのだろう。
あと何度、ひとりで起きればいいのだろう。
外は、秋の気配が濃かった。
冷えかけた風の中で、あの頃を思い出す。
飽きもせず慣れもせず、君はこうして、夕刻に勤めから帰ってきた僕を見つけて、窓から手を振っていた。
その路地を今、僕はひとりで見下ろしている。
涙が落ちそうになって、空を見上げた。
月は隠れていたが、星が明るい。
あの頃もよくこうして、二人で夜空を見て、星や月の話をした。
もういつ死んでもいいんだけど、もう少し生きてみるよ。
僕らの親しかった人は、もう大抵、この世にいない。
君のことを一番よく覚えている僕が死んでしまえば、君を思う人は誰もいなくなってしまう。
君が本当にいなくなる。
それはとても寂しいだろう。
ここのところ、ちょっと怠けすぎた。
明日は君に教えられたとおりに洗濯をし、皿を洗い、家の中を片づけよう。
そして二人分の食器を並べ、今日あったことや、これからやりたいことの話をしよう。
すぐ出かけられるように、靴をそろえよう。
日が沈んだら窓を開けて、電気を消し、真っ暗な部屋から明るい星空を見上げよう。
ほら、その時、君はきっと僕といる。
終
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