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湊の手を振り払うようにしてキャンパスに向かって駆けた理由は、急いでいたからだけではなかった。がしりと握られた右手が熱かった。心臓はうるさい。
そして… 。
こんなことを考えるのは自意識過剰だとも思えるが、湊にキスをされるかと思ったのだ。忘れ物、と言った声はとても優しく甘やかだった。
そして引き寄せられたとき合った目は、宝物を見るような色を帯びていた。
勘違いかもしれないが、湊はバスケットを渡す直前、アキにごく自然に唇を近づけたように見えた。
こんなの初めてだ。でも、すこし考えればすぐに勘違いだとわかる。湊がアキにキスをするのは同情や優しさからだ。
アキは煩悩を打ち消すように首を振り、ため息をついた。それから講義室に向かう。
「アッキーおはよーっ!」
いきなり後ろから大きな声がしてアキは思わず肩をピクンと震わせた。振り向くと金髪ピアス革ジャケットというチャラいを体現したような男がにこやかに手を振っている。青柳だ。
青柳は同じ工学部の同級生。なぜかやたらとアキに構ってくるため、口では迷惑だと言っているが、唯一話してくれる貴重な存在だ。ちなみに彼は容姿もよく、社交性があり人目を引きつけるタイプだ。
記憶が亡くなる前のことはまったくわからないが、アキがどんな人間だったのか青柳は教えてくれない。青柳以外には話しかけられることさえないから聞けない。湊もまた、その話題を避けたがる。
そんな理由で、アキは記憶の亡くなる前の自分についてまったく知らない。きっと友達のいない寂しい奴か、とても優しいやつだったのだと思う。
前者ならもともと友人などいなかったということだし、後者なら友達だった人は気を使って話しかけないでいてくれるのだろう。
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