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◇
母が帰ってから三十分程が経過した頃だった。俺と楓乃はテーブルを囲んで、晩御飯を食べていた。
今日のメニューはカレーだ。俺は最初、時間も遅かったため、カップ麺で済ませようかとお湯を沸かしていたのだが、楓乃に「今日はスパゲッティ?」と聞かれたので「まあ似たようなものと」答えながらカップ麺を棚から降ろした瞬間、沸かしていたお湯を全部捨てられてしまった。
カップ麺の何がダメだったんだろう。スパゲッティと同じ麺類なのに。
行動に目を丸くしていると「ちょっとどいて」と、俺を横へと押しやって、まるで自分の家のようにテキパキとした動きで料理を始めた。
俺は行き場の失ったカップ麺を棚に戻し、特にやることもないため先に風呂を済ませることにした。
そして風呂から上がって、腹の虫を刺激する香りが廊下にまで流れていて食欲をそそった。
リビングに入ると、テーブルには既に、美味しそうに湯気を立てたカレーがテーブルに並べられていて、楓乃は既に座ってスマホを弄っていた。
気がつくとすぐにスマホをポケットにしまい「早く食べよー」と能天気な声を上げた。
俺も特に変わったことは言わずに「そうだな」とだけ返して、席に着いた。
お互いに手を合わせて、最初の一口目を口に運ぼうとすると妙な視線を感じて、動きを止める。俺は目線だけを上げて正面を見ると、楓乃が口の前でスプーンを止めて、ジッとこちらを見ていた。
「何だよ?」
そう聞くと楓乃は「別にー」と言うが、どこかそわそわとした様子だった。俺は落ち着かない気分を抑えて、口にスプーンを運んだ。
ドロリとした食感のコクと旨味が口の中に広がる。辛すぎず、程よく水を必要としそうなその味に俺は「うまい……」と思わず呟いた。
だが、すぐに失言だったと気づき、ハッとして顔を上げると、ニマニマと勝ち誇った笑みを楓乃は浮かべていた。
俺はそれに何だか照れ臭くなり隠すように顔を逸らして、どんどんと口にスプーンを運んでいく。その様子に、楓乃も安心したように食べ始めた。
食はどんどんと進み、他愛のない会話をしているうちに俺達はカレーを平らげて一息ついていた。
「センパイ、美味しかったですか?」
食べ終えるなり、楓乃はそんな質問をしてきた。
確かに美味しかったが、さっきボソリと呟いたときに見せたあの表情を思いだし、俺は誉めるという選択肢を捨てた。
「さっき言った通りだが?」
そう冷たく返すも、楓乃は「んふふ」と気持ちの悪い声を漏らした。
「よく聞こえなかったから、もう一回言って欲しいなぁ」
顔をテーブルの上に乗せた腕に口元まで埋めて、上目遣いで甘えるようにこちらを見上げて言う楓乃に、俺は努めて冷静に答える。
「さっき言った通りだが?」
「いや、そっちじゃなくて……ほら、美味しいを別の言い方で」
「デリシャス」
「センパイの意気地無し」
さっきまでご機嫌だった楓乃は、一気に不機嫌になりそっぽを向いた。
俺は面倒だなと思いながら立ち上がって、トイレに行こうとドアに手を掛けたところで。
「あー……楓乃」
「……なに?」
話し掛けると、僅かの間を開けてから返答が返ってきた。
だが、その声からはまだ不機嫌さが滲んでいた。
俺はどう言おうかと頭を掻いて、首だけを回して楓乃を見やると、こちらを見ていたらしき楓乃の顔が慌てたように再び反対へと向けられてしまった。
その後ろ姿に俺は声を投げる。
「カレー……旨かったよ」
そう恥ずかしさを押し殺しながら言うと、楓乃が一度ピクリと身体を震わせるてゆっくりと顔をこちらへ向けて。
「ありがと!」
そう無邪気に笑って、お礼を言われた。それが余計に俺の中の羞恥の感情を強くさせ、俺はそれから逃れるようにトイレへと向かう。
つくづく思う。ああいうのは苦手だと。
そして同時に思う。あんな風に笑うのは、そうしないとやっていられないからなんだろう。
ずっと塞ぎ込んで、不安に頭を抱えて震えているだけなのが耐えられないから、笑って気を紛らわせようとしているのだ。
楓乃のバイト初日。その帰り道でボソリと溢した『やっていけそう』というのは、つまりはそういうことだったのだろう。
存在するのかどうかも分からない敵。対処方法も分からない現象。それらから受ける恐怖は、今の俺には想像がつかないくらい大きいはずだ。
あの笑顔は、ふとしたきっかけで崩れてしまうほど脆く、すぐに瓦解してしまう。
そんな彼女を、俺は支えられてるのだろうか?
本当の意味で、彼女と笑い合える日が来るのだろうか?
俺ができることなら、とにかく何でも試してみるつもりだ。
それがどれだけ馬鹿げたことでも、少しでも可能性があるならやる。
馬鹿げたこと……?
「そうか!」
俺はふと、ある事を思いついて勢い良く立ち上がった。
「えっ、なになに!? どうしたと?」
急に音を立てて立ち上がる俺に楓乃は少し身体を仰け反らせて驚いた。
「フィクションで馬鹿馬鹿しかろうがなんだろうが、とにかく試さない事には意味がないよな?」
「え? う、うん、そうかも……なんの話?」
部室では参考にならないと切り捨ててしまったが、俺自身が最初に篠崎に言っていた事じゃないか。
目には目を。フィクションにはフィクションを。非現実には非現実を。
関係と状況が多少違えど、それは試さない理由にはならない。
そうと決まれば。
「よし、楓乃。今から砂浜に行くぞ」
「へ? ちょっと待ってよー」
呆けた顔をする楓乃に大した説明はせず、腕を掴むとそのまま引きずっていった。
◇
夜の海はどこか幻想的だ。
真っ黒な海面に揺れる月明かり、見上げれば開けた夜空を彩る星々達。
そんな、どこか現実離れしていると思わせる空間の中で、俺と楓乃は向かい合っていた。
「楓乃、俺達が初めて会ったのも、ここだったよな」
「う、うん。そうだね」
俺が照れ隠しに鼻の下を人差し指でこすると、彼女もまた恥ずかしそうに……ではなく、呆れたように頷いた。
そこには状況が分からないように困惑しているように見えるが、俺は構わず芝居がかったように髪をかきあげて続けた。
「最初は、なんか変な女が話しかけて来たなと思ってたけど」
「ホントにそんな事思ってたの!? 冗談だと思ってたのに」
ショックを受けたような顔をされるが、実際あの時は本当にそう思っていたのだからしょうがない。
俺と楓乃との出会いを語る上で『変な女だと思っていた』というワードは欠かせないのだ。
「でもさ、あれから長い間お前と過ごしてさ」
「続けるんだ……まだ一ヶ月も経ってないし」
「俺、分かったんだ」
俺はそこで一度言葉を区切ると、優しい目をしたつもりでフッと笑って、楓乃と出会ってから今までの感想を素直に口にした。
「楓乃って、結構普通だなって」
「全然嬉しくないよ! 寧ろ今まで変な女だと思われてた時期があったことにあたしはショックだよ!」
およそ、今立っている場所の雰囲気に合わないツッコミの声が夜の海に響く。
そう言われても、顔を知らない相手にいきなり訳の分からない質問をぶつけるような人を変な奴だと思うなって方が無理だ。
それに今は意外と普通だったとは言うが、科学では説明できない謎の問題を抱える彼女は残念ながら俺の中ではまだ変な女ではあるが、そこは触れないことにした。
それよりも俺は、先程からの楓乃態度から一つ気になることがあった。
「なぁ、楓乃よ」
「えっ、な、なに?」
いきなり素に戻る俺に、若干の戸惑いの色を見せると。
「さっきからツッコんでばっかでなんなんだよ! ちゃんと返して来いよ! 誰のためにやってると思ってる?」
「本当に私のためにやってるんだとしても、それただのイジメだからね!?」
「イジメとは失礼な。俺はこの茶番を通して、お前の抱える問題を解決しようとしてるのに」
「茶番でどうにかなる程度の問題なら最初から悩んでないよ! てか、やっぱり茶番なんじゃん!」
「フィクションの世界なんかではよくあるだろ? こういう会話して泣いた後に気がついたら普通に戻るってお決まりの展開」
「それにしたって、茶番と思いながらやっても意味ないと思うんだけど……こういうのはお互いの気持ちが大事っていうか」
最後の方の言葉をモニョらせる楓乃に、俺は首を傾げた。
「お互いの気持ちが、なんだって?」
「別に何でもない! あはは……」
楓乃は慌てて誤魔化すと、苦笑いを浮かべながら人差し指で頰を掻いた。
「まあそりゃあ、お互いの気持ちは大事だろうけどさ」
「ぜ、全部聞こえてんじゃん!」
別に弄ぶつもりはなかったが、なんだか妙に恥ずかしそうにしていたので、いっそもっと辱めようとという俺の親心だ。決して鈍感系主人公をわざと演出して面白がっていた訳じゃない。
ぶっすーと不機嫌そうな表情で睨んでくる楓乃に俺はやれやれと呆れるように頭を振って。
「文句の多い奴だなまったく……じゃあまた始めからな」
「まだ続けるの!?」
驚く楓乃をスルーして、先程のくだりでやった最初のセリフを思い出す。
「楓乃……えーっと、変な女のお前と出会ってから結構経つけどさ」
「セリフが前後混ざってる!」
あまりにも適当な事を言いすぎて、変な女のくだり以外全然覚えてなかった。
それでも俺は先程の一連の会話を必死に思い出して口を開くが。
「お前と今まで過ごしてきて……あ、ちょっと待って。セリフ忘れた」
やっぱりダメだった。
そんな俺を見て楓乃は呆れた目をこちらを見て。
「もう色々と台無しだよ。今更だけど、ホントに何がしたかったのこれ?」
「分からん」
「え?」
即答する俺に楓乃が面食らったようにポカンとするが、すぐに意識を現実へと戻した。
「じゃあ、あたしは無駄に弄ばれただけってことなの?」
「結果的にはそうなったが、砂浜に来る直前くらいまでは真面目に考えてた」
「それ最初からふざけてたって事だよね!?」
この作戦を思いついた時は良いアイデアだと思ったもので、フィクションにはフィクションをとか言って息巻いて出てきたのは良いが、考えていくにつれて馬鹿らしくなってきたのだ。
そもそもやるにしても俺では役者が不足しているし、そこまでに至るストーリーも俺達にありはしない。
結果、やる気がなくなった俺は瞬時に茶番に切り変えて今に至る。
俺は下が砂だというのも御構い無しにその場に座り込むと、広大な水平線へと視線を向けた。
「でも、どうするかなぁ……」
「なにが?」
「お前の抱える問題に決まってるだろ」
「あ、そっかそっか……」
楓乃のやたらと薄い反応に、僅かに引っかかるものを感じたが、取り敢えず話を進めることにした。
「正直、今の段階で原因に繋がることが何一つ分かってないから、行動に移しようがないんだよな」
現段階で分かった事と言えば、せいぜい楓乃が他人から忘れられる条件のようなものくらいだ。その条件の内容についてもきっと、俺達の知らない事がまだ何個かありそうな穴だらけの情報だけ。
ここから解決しようとしても、当然答えが出てくることもなく、こうやってフィクションの世界の真似事にさえ手を出して茶番で終わるような有様だ。
試せることは全部試したいのだが、まず何を試して良いのか分からないのだから、俺たちは立ち止まるしかない。
それはどこかもどかしく、いつしか焦りのようなものがちらつくのを自覚していた。だからこうして勢いで飛び出してきたのだ。
俺でこうなのだから、その当事者本人である楓乃の不安や焦りは俺の比じゃないだろう。
きっと今にも潰れてしまうんじゃないとさえ思えてしまう。
楓乃は、俺に習うようにその場に腰を下ろすと、視線もまた同じように広大な水平線へと向いていた。
「センパイって、なんだかんだで結構あたしのこと真剣に考えてくれるよね」
「何だよ急に」
突然しおらしくなった楓乃に戸惑いながら返すと、楓乃は苦笑した。
それもすぐに止めると、水平線に向いていた楓乃視線は目の前の砂へと落ちて。
「変なことに付き合わせてるのに一生懸命だから、なんでだろうなぁって」
「別に。ただ、俺だって無関係なわけでもないからな。お前の抱える問題のおかげで、店長と半田に変な誤解されたから、元凶に文句の一つでも言わんと気が済まん」
「センパイ、もしかして照れてる?」
「別に照れちゃいない。ただ思った事を言っただけだ」
そう言いながらも顔を逸らして、視線を水平線の彼方へとぶん投げているので全然説得力がない。その証拠に僅かに苦笑する声が聞こえる。
「だとしても、あたしはすっごく助けてもらってるよ」
「助け? まだ俺は何もできてないと思うんだけど」
楓乃問題が発覚してから実際、俺がしてやれたことは何一つとしてなかった。
確かに、色々と調べたり話を聞いたりはしたが、結局問題の解決につながるようなことは何もしてやることはできなかった。
それでも、楓乃はゆっくりと首を振った。
「……そんなことないよ。センパイには確かに助けてもらってるもん」
「全然身に覚えがない」
「センパイらしいね……」
零す様に言うと、楓乃はどこか呆れた様な笑みを見せた。
「なんだよ、俺らしいって?」
「自覚なしでやってるって辺り、やっぱりセンパイだなぁってこと」
「ひょっとして、今バカにされてるのかしら?」
「なんで急にオネェ!? う、うーん、そうだなぁ……」
なかなか理解を得られない楓乃は少し考えると。
「だって考えてみて欲しいんだけど、誰からも忘れられちゃう状況ってさ、やっぱりキツイんだよね」
出て来たのは、俺には共感できない、楓乃だけが抱える心の悲鳴だった。
ポツリと語り始める楓乃に、俺視線を合わせる。
「でもね、そんな中で一人でもあたしの事を覚えていてくれる人がいたらさ、それだけで全然違ったんだよね。心の持ちようっていうか、そういうのが」
「そういうんもん、なのか?」
「うん。そういうもんだよ」
確認の言葉に、楓乃はあっさりと頷いた。
そして。
「だから、ありがと」
そう楓乃は、今日一番の笑顔で言った。
今の今まで、正面から感謝されることがなかったためか、一体どんな反応を返せばいいのか分からず、俺は目を逸らした。
でも、自覚はないけど、俺の行動が楓乃の支えになっていたのなら、意味がなかった訳ではないのかもしれないと思えた。
俺はどことなく生暖かい雰囲気に居心地が悪くなって立ち上がると。
「ほら、そろそろ帰るぞ。いつまでもここに居てもしょうがないしな」
「あー、やっぱり照れてるんだぁ」
「照れてないって! あんまアホなこと言ってると、家から叩き出すからな」
「はーい、ごめんなさーい」
全然悪びれた様子もなく、それどころか妙に楽しそうに謝罪する楓乃を尻目に、二人して帰路に着いた。
こうしてみれば、普通に今を楽しんでいる一人の女の子にしか見えない。
でもきっと、こんな風に笑うのは、そうしないとやっていられないからなんだろう。
ずっと塞ぎ込んで、不安に頭を抱えて震えているだけなのが耐えられないから、笑って気を紛らわせようとしているのだ。
今思えば、楓乃のバイト初日。その帰り道でボソリと溢した『やっていけそう』というのは、つまりはそういうことだったのだろう。
存在するのかどうかも分からない敵。対処方法も分からない現象。それらから受ける恐怖は、今の俺には想像がつかないくらい大きいはずだ。
あの笑顔は、ふとしたきっかけで崩れてしまうほど脆く、すぐに瓦解してしまう。
さっきは十分助けてもらっていると楓乃は言っていたが、俺は本当にそんな彼女を支えられてるのだろうか?
本当の意味で、彼女と笑い合える日が来るのだろうか?
そんなことをぼんやりと考えながら、その日は眠りについた。
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