第1話 困惑

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天井に設えられた照明が一斉に光を放ち真っ直ぐに伸びる通路を満遍なく照らす。 先程まで点々と灯る常夜灯のみが唯一の光源であった薄暗く長い通路は足を踏み入れた者の存在を感知し全ての照明器具を自動的に点灯させていた。 人工的な光を浴び暫くの間立ち止まっていた少女は一つ小さな溜息を漏らすと重い足取りで歩き出す。 視線の先、コンクリートの灰色をした壁の一点に飾り気無く、しかし丹念に磨き上げられたような滑らかな表面に白い光を鈍く反射させる金属製の板が見えた。 見上げるほど大きな金属板の前で足を止めた少女は壁に設置されたセンサーに手をかざす。 静脈パターンが登録されたものであると電子音が僅かに告げ思いの外分厚い金属の板は音も無く横へ滑り壁の中へとその姿を隠す。 通路の壁にぽっかりと開いた空間に足を踏み入れ数歩進んだ背後で壁は再び閉ざされた。 後ろには目もくれず少女は黙々と通路を進む。 両側の壁に金属板の立ち並ぶ通路の突き当たり、両開きのドアを開け放つと広い空間が現れた。 ソファやテーブルが設置され五十人は寛げそうな部屋に人の姿は無く天井に取り付けられた換気装置の唸りだけが白い壁に反響し低く響いている。 歩みを止めず少女が向かうは先は部屋の奥、[ロッカールーム]とプレートの掲げられたドアを開くと中にはうら若い半裸の女達がひしめいていた。 併設されている浴室でシャワーを浴びたのか、まだ体から湯気を立て濡れた髪をタオルで拭いている者も数人いる。 男性からしたら垂涎ものの光景だろうがここにいるのは女性ばかり、無防備に肌を露わにする自らの姿を気に留める者は誰もいない。 女達の間を足早に通り抜け自分のロッカーの把手に手を掛けたとき、肩口に衝撃を受けた。 驚き振り返ると、そこには形の良い胸を隠しもせず私を見下ろす赤髪の少女が立っている。 「Damn. You are a big wuss!」 ──キャハハハハ!! 向き合う二人を囲む数人の取り巻きが大袈裟に笑い声をたてた。 「いま肩を叩いたのは…ケイト?何?何て言ったの?」 英語の分からない私は聞き返す。 英語は苦手教科だ… 「お前ほんっっと使えねぇな!って言ったんだよ!」 赤髪の少女─ケイトは整った顔を怒りで歪め詰め寄ると淀みの無い日本語で言い放つ。 「さっきの事を言っているの?私も頑張ってるんだけど…」 「はぁ?何が[頑張ってる]だ!結果だよ!結果!!これ見ろよ!お前のせいで傷が付いただろ!?」 目の前に突き出した掌が青白い光を発し何も無い空間から突如として(ロッド)が姿を現す。 緑を基調として金色の精巧な細工があしらわれたそのロッドの先端付近には大型の獣の爪で引っ掻かれたような三本の筋がくっきりと刻まれていた。 「出る前にサポートしろって言ったよな?言われた通りやれよ!できないなら辞めたら?お前さ、足手まといなんだよ!この能無し!!」 ──能無し!それいいねー! ──あんたにピッタリじゃない! ──キャハハ!! ──能無し!能無し!! 取り巻き達がここぞとばかりに囃し立てる。 「ケイトが勝手に突っ走るからだよ!もっと皆と合わせて…ぐぅっ…!」 一際上背のあるアジーが私の胸倉を荒く掴み金属製のロッカーに背中から叩き付けられる。 治療を終えたばかりの胸部から脳髄を駆け上がる耐え難い痛みに思わず声が漏れ顔をしかめた。 「お前!ケイトに生意気な口をきくな!」 騒ぎに気付いた数人が何事かと首を伸ばしこちらを伺っているが…諍いを止めに入る者は無くケイトのグループに意見できる者もまたいない。 ロッカーに体を押し付けられながらも背の高いアジーを見上げ睨みつけた。 「あぁ…?何だよその目は?能無しのくせに生意気だね、ちょっとお仕置きが必要かな?」 アジーはその口の端を歪め歯を剥き出すと平手打ちをすべく胸倉を掴んでいない方の手を高々と振り上げた。 周りを見るとケイトや取り巻きの連中は陰湿な笑みを顔に貼り付け私を囲み眺めている。 『こいつら…いつも好き勝手やって…!』 アジーの手が振り下ろされる瞬間、怒りに握り締めた拳を眼前に突き出した。 きゃああ!! ……………………………… ………………………? ……何だ? 女の…悲鳴…? 誰の…? 私…じゃない、悲鳴なんて最後に上げたのは…いつの事だったか…? では誰の…?誰の悲鳴………? 疑問に思い瞼を開く。 視界に飛び込んできたのは口元に手を当て驚きの表情を浮かべる少女と突き出した自分の拳、 そして、天井の穴から覗く青空だった。 『…?……誰?さっきの悲鳴は…この子…?』 見覚えのない少女は取り乱した様子で何かを叫び、小走りにドアから出て行ってしまう。 なん…だ? ここは…どこだ? 身を起こし周囲に視線を巡らす。 『知らない部屋だ……』 すぐに全体を見渡せるそう広くない部屋の隅、窓際に置かれた木製のベッドの上で私は寝ていたようだ。 この場所で何が起こったのか周囲の床、ベッドの上、自分の体にいたるまで木屑や埃にまみれ汚れている。 こうなった原因を考えてみるが…今は何も思い当たらない。 …どうも思考が鈍っているようだ…霞の掛かった頭を振り現状の確認を試みる。 『…そうだ……私は…戦っていたはずだ…それがどうしてこんな所に…?』 おかしい…     このベッドで目覚める前の記憶と今の状況が合致しない。 …記憶が……繋がらない……? 過去の記憶を辿ってみると、途切れたフィルムのように埋まらない空白の期間があることに気付く。 眉間に皺を寄せ必死に記憶を手繰り寄せるもその断片すら見付けられず焦りを感じ始めていた。 『こんなことは初めてだ…一体なぜ…?』 肩を落とし溜息をついた視線の先、膝の上に置かれた自分の手が目に止まる。 そこに違和感を感じ手の平、甲と幾度か反し眺めるも特に変わった箇所は無く何が気になったのか…原因を見付けることができずに首を捻った。 『…気のせい…か…?』 どうも…まだ頭がはっきりしていないようだ… 再び小さな溜息をつくと顔を上げ部屋の中に視線を彷徨わせる。 そう言えば…久し振りに嫌な夢を見たな… ケイトとその取り巻きの事、もうだいぶ前の事だけど…いまだに夢に見るなんて… これをトラウマと言うのだろうか…? とりとめもない事を考えているうちに慌てたように近付いて来る乱れた足音を耳が捉える。 開けっ放しのドアから飛び込んで来たのは先程駆け出して行った少女と気の強そうな中年女性の姿であった。 「-----!」 「----!」 ??? 二人は興奮した様子で私に駆け寄りベッドの上に身を乗り出さんばかりの勢いで話し掛けてくるが… 何を言っているのかさっぱり理解できない。 理解できない理由… それは頭がはっきりしないからでも耳の聞こえが悪くなったからでもない。 言葉が…日本語ではない。 改めて二人を見ると少女も中年の女性も欧米人のような顔立ちをしていた。 改めて注意深く耳を傾ける、 …英語…?…いや違う、英語は嫌いな教科だけどその位は分かる。 それじゃ… ドイツ語?フランス語? いや…仮にそうだったとしても私には日本語しか分からない。 『…どういう事?ここは一体どこなんだ…?』 この部屋に見覚えがない、 この人達に見覚えがない、 なぜベッドに寝ていたのか分からない、 木屑と埃にまみれている理由が分からない、 記憶の一部に欠損があり、 目の前の二人が話している言葉は理解不能だ。 困惑すべき事態が立て続けに起こり私の頭はひどく混乱していた。 先ほどからベッド脇で話しかけてきている二人の事を無視して頭を抱えたくなる。 しかし…このままだんまりというわけにもいかないだろうし… 『黙っていても仕方ない、か…通じる通じないは別として取りあえず話しをしてみよう。』 そう意を決すると二人に顔を向け口を開いた。   「あのー……ここはどこですか?私はどうしてここにいるのでしょうか?日本語…わかりますか?」 私の言葉を聞き目を瞬いた二人は困ったように顔を見合わせた後、理解のできない言語で何かを話し合っている。 予想はしていたけど…やはり日本語は伝わらないみたいだ… 今まで生きてきてこんなシチュエーションに出くわした経験は無い。 言葉が通じない場合、意思の疎通を図るためにはどうしたらいいのだろうか? 『日本語が通じないのなら文字を書いても意味無いよね…ジェスチャーで細かなやり取りはできないだろうし…英語が話せれば少しは通じたのかな?こんな事なら真面目に勉強しておけばよかった…』 今更ながら勉学を怠ったことを後悔し落ち込んでいると、中年女性が短く声を上げちょっと待っていてと言うような手振りを残し部屋から出て行った。 日本語を話せる人を連れて来るのだろうか?それなら助かるのだけれど… 部屋に残された少女は床やベッドの上に散らばっている木屑を拾い集めつつ-言葉が通じないのは分かっているはずだが-柔らかな表情で私に話し掛けている。 『私が不安にならないように気を使ってくれているのかな…?少し警戒していたけど…どうやら悪い人達ではなさそうだ。』 少女の様子を見て内心胸を撫で下ろしつつ次第にはっきりしてきた頭で改めて部屋の中を見回した。 窓から注ぐ柔らかな陽光、控えめだが品を感じさせる調度品、内装には木材がふんだんに使われ居心地の良さそうな部屋ではあるけれど… 過去の記憶を探ってみてもやはり見覚えは…無い。 『…それにしても…散乱している木屑や埃は何だろう?まるで何かが爆発したような有様だけど…』 不思議に思い部屋の中を眺めていると、先ほど部屋を出て行った中年女性が金属製と思われる輪っかを手に持ち戻ってきた。 ベッドの側に立つとそれを手首に着けるようにと私に手振りで示す。 『日本語が分かる人を連れて来るんじゃなかったのか…これは何だろう?バングル?』 手渡されたひやりと冷たい金属の輪っかは継ぎ目の無い円形でバングルのような形状をしている。 手の中で角度を変え鈍い銀色をしたその表面をよく見ると何かの文字か模様のような物がびっしりと刻まれていた。 これが何なのか分からないしなぜ渡されたのかも不明だが、特に危険な感じはしない。 二人は笑みを浮かべこちらを見ているため取りあえず指示通り身に着けてみようと思う。 今まで身を飾る装飾品とは無縁の暮らしを送ってきた私でもこの着け方くらいは知っている。 私の手首に納まったバングルを見て頷いた中年女性は少女が持ってきた木製の椅子をベッドの脇に寄せ腰を掛けるとおもむろに口を開いた。 「どう?言葉わかる?私はこの商会を営んでいるアリーシャ、あなた、お名前は?」                             
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