第10話 逃亡

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第10話 逃亡

時はほんの少しだけ遡る─ 「団長!俺らあの小娘の言いなりになっていいんすかぁ!?」 モンテの経済を支える物流の大動脈、バルト大通り、その敷き詰められた石畳の上を鞘や鎧の擦れ合う音を騒がしく立てながら全速力で走る傭兵団[破竜]の姿が見えた。 「言いなりも何も約束しちまったもんは仕方無いだろーよ!」 「そーなんすかぁ?俺ぁてっきりあの女にビビったんじゃねーかって…なぁ?」 「ああ!何せデカい鼠を投げて寄越すような怪力だ!ありゃあおっかねぇ!」 「こえーこえー!小便チビりそうだったぜ!」 「馬鹿言うな!若があんな小娘一人にビビるわけねぇだろ!」 「若のせいにしてんじゃねーぞ!お前らだってあの女に約束したんだろうがよ!戦う前にごちゃごちゃうるせえんだよ!」 「若じゃねえ!団長と呼べ!」     「「すみません!!」」 「いいかお前ら!俺は約束を破るのは好きじゃないが命まで賭けるつもりは更々無いからな!そんなものはどこぞの国の騎士様にでもやらせとけ!俺らはどこの勢力にも組せず金のために戦う傭兵だ!端金にしかならん魔物なんかとの戦いで命を落とすなんざ笑い話にもなりゃしない!いよいよヤバくなってきたら約束なんざ関係ねぇ!なんとしてもこの街から脱出するからな!」 「義理堅いんだか薄情なんだか…団長はわけわかんねーな!」 「わけわかんねーのは今に始まったこっちゃねーだろ?その上どう考えたって正気じゃねぇと来たもんだ!だってよ、これから相手にすんの二千匹の鼠だぜ!?」 「でもよ!戦場(いくさば)での勘の冴え方は先代以上だぜ!それで俺らは何度も命拾ってんだからよ!団長だったら撤退の潮時を読み間違えたりしないさ!」 「ああ!それが[破竜]団長ロッソ様よ!今からビビってる奴はとっとと家帰って母ちゃんのおっぱいでも吸ってな!」 違いねぇと口を揃え品の無い笑い声を立てる荒くれ共は役所の前を(やかま)しく駆け抜ける。 街のほぼ中央にある役所、それに各門に併設されている監視のための建物を除けば高い建造物はほとんど見当たらないモンテの街、 二階建ての建物が最もよく目に付き次に多いのは住宅や大通り沿いに連なる店舗などの平屋であった。 そんな低層建築物が街の大多数を占める事もあり、監視塔などの高台(こうだい)から一望する街並みは屋根の高さがほぼ均一な印象を受けるのだが、その中に一際目を引く建物がある。 周囲よりも倍近く背の高いその建物はこの街の長の職に就く者に与えられる重厚な造りの邸宅であった。 稀ではあるものの貴族などの賓客を招く事もあるためそれなりの格式を持ち建物の一階と二階のほとんどは大勢で食事を楽しめる広間や応接室などもてなすための部屋で占められていた。 ゲストを迎えるに当たって本来ならば住居とは別棟であることが望ましいのだが、ここは辺境の田舎街、建設当時そこまでの施設は不要だと考えられたらしく同じ建物に詰め込まれる形になったと言う。 モンテの街の中では取りわけ目立つ立派な建物ではあるが、今夜は迎え入れている客の姿は無くゲスト用の寝室で寝息を立てている者も見当たらない。 この街で雇い入れたメイドなど下働きの者達も各々の家へと帰り今頃ドアの鍵を固く閉ざしベッドの上で震え上がっている事だろう。 静まり返った広い邸宅に灯りは無く人の気配は一つも感じられない……… …いや、いた。 建物最上階の暗い窓辺に一人佇む中年の痩せた男の姿があった。 こけた頬、眉間に刻まれた深い皺、神経質に忙しなく動く細い目、 屋内で完結する仕事に長年就いているのか肌は白く日に焼けた様子は見られない。 窓に額を押し付け緊張の面持ちで街の南側を凝視しているのはこの街の責任者ニルドの姿であった。 その身に着込んでいるのは役所の上等な椅子でふんぞり返っている時のような仕立ての良い服ではなく、これから旅にでも出掛けるような動きやすい服装に足元は革のブーツを履いている。 ランプも灯さず暗い部屋の中で一体彼は何をしているのか…? 勤務中とは様子の異なるニルド、その口角の下がった口元が窓から差し込む月の光に照らされ僅かに動いているのが見えた。 「……もうすぐだ…南門はもう間もなく破壊される、門が壊されたら二千匹の鼠が一気に押し寄せこの街は確実に壊滅するはずだ。一刻も早く逃げ出したい所だが…部下が緊急の報告のためここを訪ねて来るかもしれない、その時に私がいないとなれば間違い無く騒ぎになる、それはいけない、万に一つも疑われてはならないのだから。生き残った部下か街の者の口から私が街を捨てて逃亡したなどと噂が立てば間違い無く出世に響く。救助されたときに魔物に襲われ滅んだ街から命からがら逃げ出した不運な男を装わなければならないのだから…疑われるような事は間違ってもあってはならない…!だからまだだ、まだ我慢だ…かと言って街の中での戦闘が始まってから行動を開始したのでは鼠に襲われる危険性がある。つまり、逃げ出すのは南門が破壊された瞬間!そうすれば私がこの家に不在でもどこかへ避難したのだろうと解釈されるはず、そのための書き置きも既に用意してある。鼠との戦闘が激化すれば混乱の中その辺りはうやむやになり王都に戻った後で追及されようと何とでも言い逃れが出来るからな。と言うか…いっそのこと部下とこの街の奴らが揃って全滅してくれれば後顧の憂いも無くなるのだが……」 その存在を確かめるように手を伸ばした上着の内ポケットにはいかにも焦って書きなぐったような字体の、走り書きを装ったメモを忍ばせてある。 次いでニルドはズボンのポケットを探り金属の冷たい硬さを確かめた。 『まったく…この鍵に気付く事が出来たのは僥倖でしたよ。』 赴任した際、街の構造を知るため全ての図面に一通り目を通したのだがその時、一つの図面がニルドの目に止まる。 必要な鍵を役所の保管場所からこっそりと持ち出すと合い鍵を作り万が一のときのため自室の机の引き出しに仕舞い込んでおいたのだ。 それがまさか、本当に役に立つときが来ようとは… 『この合い鍵を作っておいた自分を褒めてあげたいですね!これを使えば北門や南門を通らずして街の外まで逃げることが可能…!金と食糧や飲み水、装備一式は既に用意した、一人でヘトキアまでの道のりを行くのは不安ですが…日中のみ行動をすれば魔物に遭遇する確率は下がるでしょう、商隊か旅人が通りかかれば同行させてもらえばいい。何にせよ、鼠に蹂躙される街に居座るよりは確実に安全ですからね!』                 自らの機転を盛大に褒め称えたい気持ちを我慢し、それでも漏れ出る笑みを堪えながら再び南門に注視する。 この場所からは門の様子がよく見える、そう、既に何度目かの衝撃音がこの邸宅にも伝わり折れかかっている閂や歪んだ門扉の状態も見て取れた。 『もうすぐだ…!もうすぐ南門は破られる!門が破壊されたらその瞬間に行動を開始するぞ!絶対に見逃さない!南門が破壊されたら逃げる、南門が破壊されたら逃げる、南門が破壊されたら逃げる……あ、そう言えばお気に入りの本を荷物に入れていなかったな…どこへやった…?あれは寝室だったか?』 ニルドが南門から一瞬目を離したその時、今までのものとは比べ物にならない轟音が建物全体を震わせた。 それに驚き慌てて窓の外を覗き見るとその目に信じ難い光景が飛び込んでくる。 街の内と外を隔てていた南門が跡形も無く完全に無くなっているではないか! 『!!!!門が破られた!!今だ!逃げるぞ!!』 ソファの上に置いてあった荷物をひっつかみ躓きそうになりながらも転がるように階段を駆け下りる。 しかし……ニルドはここで大失態を犯した。 門から目を離していたという事もあるのだが、主に焦りと緊張が原因で視野が狭くなり気付いていなかった… 破壊された瞬間を見逃したのだとしても、それでもまだ遅くはなかった、もっと注意深く観察していれば…門前広場に散らばる門の破片が異常に少ない事や物見櫓の屋根から夜空へと跳ぶ少女の姿にも気付いたはずだ。 しかし…ニルドは気付けなかった… そう、最も重要な事を見落としてしまった。 南門は街の内側から(・・・・)破壊されたと言う事実に。 一階まで駆け下りたニルドは目につきやすい食堂のテーブルの上に用意しておいた書き置きを広げて置くと外套のフードを深く被りそそくさと裏口のドアから外に出た。 邸宅の敷地を足早に横切ると裏路地に出る辺りで注意深く周囲に目を配る、鼠の姿や人影が無い事を確認すると数歩先の路面にある分厚い金属製の蓋に素早く駆け寄り把手に手を掛けた。 歯を食いしばりこめかみに青筋を立てながらもなんとか蓋を動かし人一人通れる隙間を確保すると地に開いた暗い空間に身を滑り込ませる。 「うっ…!さすがに臭うな……」 決して誰にも勘付かれないように重い鉄の蓋を慎重に閉めた途端、耐え難い臭気がニルドを襲う。 袖口で口と鼻を塞ぎ手元のランプ型魔法器具を点灯させると人一人が辛うじて立って歩ける程の暗い横穴がどこまでも延びていた。 ニルドが入り込んだのは汚水が流れるこの街の下水管の中であった。 臭くて不快で不衛生極まりないこの場所に一瞬たりともいたくはないが、命には替えられない、ここは我慢だと自分に言い聞かせる。 『下水道の図面は写しを取ってある、これで迷わず逃げ延びる事が出来るはずだ。』 手拭いを首の後ろで縛り簡易的なマスクを作ると片手に図面、もう片方に明りをかざし滑る足元を確かめつつ汚水の中を北東へと向かい進んで行った。            
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