0人が本棚に入れています
本棚に追加
○
元は、とある中小企業の営業部長として働いておりましたが、不景気の煽りを受けまして、リストラの対象となってしまいました。それまでずっと独り身であった私は途方に暮れて、公園のベンチに一日中座り込んで動けないことが多々あったわけでございます。
一花と出会った日は、雨が降っておりまして。私はと言えば、傘も差さずにベンチに座り込んでおりました。そのままぼんやりとしておりますと、ふと雨がやんだわけであります。これがまたベタなことではありますが、雨がやんだのは、一花が私に傘をかけてくれたお陰なのでした。
「どうしたんですか。風邪、ひきますよ」
その当時の一花はスーツを着ており、就職活動の真っ只中でした。
「あ、大丈夫です。すみませんでした」
私はと言えば、若い娘さんに声をかけられて、気恥ずかしくなってしまいまして、その場をさっさと後にしようとしたのですが、「待って下さい」という一花の鋭い声音に、私はからだをビクリとさせて足を止めたのです。
「大丈夫なわけ、ないでしょう」
すっかり雨でベタベタになっている私の袖を、一花はためらいなく掴みました。
「何かあったんですか。私、話を聞きますよ」
冴えないおっさんを狙った詐欺なのだろうかとも思ったのですが、一花は私の目をじっと見ておりました。その目ときたら、いつかの日に置いてきた子ども心をくすぐるようなビー玉のように透き通っておりまして、まことに身勝手な解釈ではありますが、こんな澄んだ目をした娘が人を騙すわけがないと判断したわけでございます。
雨に降られた私を、一花は無防備にも、マンションの一室に呼んだのです。そんな濡れた格好では、喫茶店にも入れないでしょうとのことでしたが、いささか無防備な一花に、私は言いました。
「少しばかり、人を信用し過ぎではないですか」
けれども、この一花という娘は、全く自分の意志がハッキリとしておりまして、「私は誰もかれもを家に上げているわけではない」と怒気を孕ませながら言うのです。
「私は、信じたい人を信じているだけです」
その言葉を、私はありがたく噛み締めておくことにしたのでした。
最初のコメントを投稿しよう!