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男は鞄を持つ手に力を込めた。真剣な表情をエマに向け、そしてニカッと笑う。
「じゃあ、また後でね、エマ、アニタ」
「バイバーイ」
あどけなく手を振るアニタに優しく微笑みながら、男は踵を返した。その背を、幾つもの忙しげな足音が追いかけてきた。
「憲兵隊の巡視だ、家に入れ!」
半人半馬の男が、低く押し殺した声で警告して回っている。憲兵隊の巡視といっても別に危害を加えられる訳ではないので、隠れる必要などないのだが、彼らは必要以上に姿を人間に晒す事を嫌っていた。
「やだ、ついさっき来たばっかりだってのに」
エマがアニタの小さな肩をぐいと引き寄せた。
「俺たちはいつ野獣化するか判らない、怖い生き物だからねえ」
「あんたのその見てくれは誤解されるんだから、さっさと隠れなよ」
母子が小走りに来た道を引き返していくのを見守りながら、男は短く息をついた。
「こそこそ隠れながら生きるのは嫌なんだよなあ」
ぽりぽりと頭を掻き、それでも仕方なく小屋へと戻った。人間たちの好奇の目に晒されるのは御免だった。
薄暗い小屋の中で息を殺し、憲兵隊の規則正しい足音が過ぎ去るのをじっと待つ。
足音が遠ざかってからおよそ5分。そっと戸を開けて外に出た。
季節は春になろうとしていた。ところどころにある木々は瑞々しい黄緑色の葉を灯し、草の間には黄色や薄紫色の小さな花が顔を覗かせている。
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