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お昼時だから今日も混んでいる。常に二、三人が出入りしているような状況だ。壁の向こうにいったり、ほかのお客さんにかくれたりして、全部の動きを追うのが難しい。
でも、
「あ」
あたしは思わず声を上げた。
「どうした?」
「なに?」
どこかに置いたのだろう、手にトレイとトングを持ってない。女は手ぶらだ。
どきどきは最高潮だ。あたしの心の中には「やれやれ」とあおるのと、「やめて」と祈るのが両方いた。そして。
「バゲットの籠に……今手をかけた。両手だ。あ、曽根崎先輩がすぐそばに来て、やめた……」
「いけないことだって、わかってるんだね」
かさかさした声で、あんながささやく。
「先輩の方を見てる、先輩は気がついてないみたい、行っちゃった……あ、また籠に手をかけて」
双眼鏡を強く押し付け過ぎて顔が痛い。自分のことなのにコントロールできない。
「動かした、今やってる、重そう、一回途中で止まって……全部動かした」
顔から双眼鏡をひっぺがして、あんなに渡す。
「ほんとだ、バゲット籠はもう横に寄せられてる。でも、カーディガンの人は普通にトングでほかのパンを取ってるよ」
「あんな」
あたしが声をかけると、あんなは半ばあきらめたふうに双眼鏡をはずす。
「はいはい、尾行大作戦、でしょ」
永遠みたいに長い時間がかかって、やっとカーディガンの女は出てきた。手には「きぼうの丘」の小さな紙袋。外に出てから布バッグに移し、肩にかけて歩き出した。
「環境にやさしいんだな」
エースの感想はずれてるが、
「バゲットは買ってないね」
あいかわらずあんなはするどい。
「きぼうの丘」のバゲットは、大人が軽く両手を広げたくらい長い。とてもあの紙袋には入らない。つまり、「バゲットを買おうとしてつい籠を押してしまった」説は消える。
女はあたしたちには気づいていない。少なくとも一度もこちらを見なかった。どんどん行っちゃう。
「行くよ、エース」
あたしに耳をつままれ、
「いてててて」
情けない声を上げたが、あんなに人差し指を立てられる。
「エースくん、静かに、ね」
なぜかそのあとは妙に素直になって、あたしたちについてきた。
へたっぴな尾行だったけど、それほど苦労はしなかった。
あたしはまたあんなに双眼鏡を借りて、女の動向を探ろうとしたけど、その必要は全然なかった。
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