第1章

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 お昼時だから今日も混んでいる。常に二、三人が出入りしているような状況だ。壁の向こうにいったり、ほかのお客さんにかくれたりして、全部の動きを追うのが難しい。  でも、  「あ」  あたしは思わず声を上げた。  「どうした?」  「なに?」  どこかに置いたのだろう、手にトレイとトングを持ってない。女は手ぶらだ。  どきどきは最高潮だ。あたしの心の中には「やれやれ」とあおるのと、「やめて」と祈るのが両方いた。そして。  「バゲットの籠に……今手をかけた。両手だ。あ、曽根崎先輩がすぐそばに来て、やめた……」  「いけないことだって、わかってるんだね」  かさかさした声で、あんながささやく。  「先輩の方を見てる、先輩は気がついてないみたい、行っちゃった……あ、また籠に手をかけて」  双眼鏡を強く押し付け過ぎて顔が痛い。自分のことなのにコントロールできない。  「動かした、今やってる、重そう、一回途中で止まって……全部動かした」  顔から双眼鏡をひっぺがして、あんなに渡す。  「ほんとだ、バゲット籠はもう横に寄せられてる。でも、カーディガンの人は普通にトングでほかのパンを取ってるよ」  「あんな」  あたしが声をかけると、あんなは半ばあきらめたふうに双眼鏡をはずす。  「はいはい、尾行大作戦、でしょ」  永遠みたいに長い時間がかかって、やっとカーディガンの女は出てきた。手には「きぼうの丘」の小さな紙袋。外に出てから布バッグに移し、肩にかけて歩き出した。  「環境にやさしいんだな」  エースの感想はずれてるが、  「バゲットは買ってないね」  あいかわらずあんなはするどい。  「きぼうの丘」のバゲットは、大人が軽く両手を広げたくらい長い。とてもあの紙袋には入らない。つまり、「バゲットを買おうとしてつい籠を押してしまった」説は消える。  女はあたしたちには気づいていない。少なくとも一度もこちらを見なかった。どんどん行っちゃう。  「行くよ、エース」  あたしに耳をつままれ、  「いてててて」  情けない声を上げたが、あんなに人差し指を立てられる。  「エースくん、静かに、ね」  なぜかそのあとは妙に素直になって、あたしたちについてきた。  へたっぴな尾行だったけど、それほど苦労はしなかった。  あたしはまたあんなに双眼鏡を借りて、女の動向を探ろうとしたけど、その必要は全然なかった。
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