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「ああ、私、悲しいんですとても。自分から乳首の幸せを神様にお祈りしておきながら、明石さんに指摘されるまで、乳首自身の自由意志なんて、考えたこともなかったんですもの。今、思わず明石さんに反論はしましたけど、実際は明石さんの言うとおりなんじゃないかって私に心の中から囁く私もいるのです。こんな弱い気持ちで、今まで乳首を想ってきていただなんて、私の信仰がこんなにも脆くどうしようもないほどお粗末なものだったとお思いなんでしょう? みなさん。ああ、悲しい。そして同時に私、恥ずかしくてたまらないんです!」
二人の悩める乙女のせせらぎのように可愛らしい泣き声に、居酒屋の個室は満たされていた。
それは悲しみの色をしていて、個室の空間に漂う空気から壁に至るまでをべったりと塗りつぶして重苦しかった。そして同時にそれは凄く酒臭かった。
テーブルの上にある刺身盛りの食べ残されたマグロの一切れなんかは、その重苦しい空気を一身に吸い上げ、刻一刻と鮮やかな身の色を鈍らせていく。色はもう刺身盛りの横に置かれた奈良漬けに近くなってきていた。
このままでは、せっかくの新鮮なマグロの赤身が駄目になってしまう。
そう思われた時である。そのマグロの柔らかに横たわった身を、繊細な箸使いですくい上げたかと思えば、直ぐに醤油の泉へとマグロをしっかり浸し、口にしたものがいた。その柔らかな唇使いは、まるで祝福の口付けをマグロの赤身に与えたかのようだった。
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