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そう言ったきり、田口はまた黙ってしまった。コンクリートの冷たい谷間で、僕たちはただ歩くことだけを許されていた。頭の中に渦巻いている言葉の数だけ、僕たちが話せる言葉は減るのかもしれないと思った。彼女も明日になれば、日比谷のアパートへと帰っていくだろう。できれば引き留めたかったが、彼女がそれを望まないのならば、それでいいような気がした。光の散乱が暗闇と溶け合って、さながら夕間暮れの紫色のようだった。後ろから田口の声が聞こえる。
「…やめた。もっと楽しいこと、考えよ」
「それがいいよ。暗いことばっか考えてても、しかたないし」
「明日はお給料日だから、どっか出かけようかな。海、はもう季節外れだし…じゃあ…」
「山?」
「やっぱり山とかかなぁ。そういえば、あの山最近行ってないな。高校の時はよく行ってたのに、めっきり行かなくなって。どうせなら、キャンプ用品とか持って行って、星空の観察でもしようかな」
「懐かしいな、二人でよく行った山だろ?花火大会の後俺たちだけ抜け出して、一緒に星見たこともあったな。いいじゃん、行って来いよ」
「…いいや、やめよ。虚しいだけだ」
「なんだよ、何なら一緒に行ってもいいんだぞ?俺も明日は休みだし」
「ひとりで行っても、つまんないよ」
「だから俺が一緒に行くって言ってるじゃんか。付き合いの悪い奴だなあ。久しぶりに会ったんだしさ、ちょっとぐらい感傷に浸ったって、誰も怒りはしないだろ」
そう言って、僕は田口の肩を叩いた。
しかし、彼女に触れるはずだった僕の手は真空を切り、彼女の体を透過していった。
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