第三部 その貴重さに気づきもせずに

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 脱衣所の片隅に、廃品のようなマッサージチェアが置いてあった。二つ並べてある、その一方にくるみが座っている。目を半ば閉じて、物思いにふけっているという顔で、遠くから呼んでも返事をしない。そっと近づいて、マッサージのスイッチを入れてみた。 「はうあああっ」  意外にも正常に稼動するマッサージチェア。くるみは頭頂から天井に向かって叫ぶような奇声とともに飛び上がり、床の上に落ちてぺたりと座り込んだ。 「おー、お金いれなくても動くんだ。てか、急に大声だすなよ、びっくりするわ」  くるみは肩越しに振り返って、何か言いたそうな顔をしてじっと私を見ている。いろいろ突っ込みたいようだが言葉にならないらしい。  そのくるみに手をさしのべ、ひっぱり上げ、もう一度マッサージチェアに座らせた。私も隣の椅子に座る。 「学校行ってないんだって?」  面白がっているような顔でそう言ってみた。 「うん」 「結構いいとこだろ、もったいないな」 「……そうなんだけどね、なんかいろいろ、複雑なことになっちゃってさ、だんだん、無理だなって思うようになってきて」  小さな声でそう言いながら、椅子の上で膝を抱えて丸くなる。 「ごめんね――私、弱くて嘘つきなんだ」 「大丈夫だよ」  私はくるみの後頭部をちょんとつつき、 「それはもう知ってるから」  と言うとくるみは、突かれた部分をさすりながら、不満そうに私をふりかえる。 「はじめて会ったときさ、妖精さんかと思った」 「ハァ?」 「嘘ばっかりつくしな。くるみの正体とか、何を考えてるのかとか、気にするのやめたんだ。わかんなくたって付き合えるから」  何を言っているのかわからない、と不満顔のくるみ。 「くるみの事情なんて知らないし、気持ちなんかわかるわけない。まして、救ったり傷を癒したりだなんて、できるわけがない。でも、そばにはいられる。くるみがそばにいることで、私自身どこか救われている。そのおかげで、私は私として、自分の問題に向き合うことができる。私もそんなふうに、くるみの役に立つことが出来ればいいなと思ってる」 「……つまり、どういうことよ」 「そのままの意味だよ。くるみのことはくるみが決めればいい。私は口も出さないし、邪魔も手助けもしない。ただ、全力で、おまえの隣にいるだけだ」  せりふの続きを待つみたいにくるみはしばらく黙っていたが、やがて 「それ、なんかつまんない」と言った。  とはいえ、さっきまでとは顔色が違っている。 「とにかく、掃除の邪魔だからとっとと帰れ」 「えーっ」  私はかまわず立ち上がった。  その背中に、とん、と何かがぶつかってくる。  くるみが後ろから抱き付いている。そう気づいたときには、もう離れていったあとだった。 「じゃ、先に帰ってるねー」  元気な声が遠ざかり、あっというまにいなくなった。  物足りなかったのはくるみではなく、私のほうだったのだけれど。  そんなふうにして、その夜は終った。
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