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「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時……」
木枯らしが吹く静かな山中に、低く、落ち着いた声が響く。
「照見五蘊皆空度一切苦厄舎利子……」
その声に誘われたか、近くの村の男が、声の主に声をかけた。
「もし、御坊。こんな所で経を読まれ、いかがなされた」
何も無い、場所だった。
あえて言うなら、小さな山村と山村の間を取り持つ、山の中の、小さな道。
おまけに日も傾きかけ、周囲の木々の影が長く伸び、陽の光を遮っている。
「……私の、亡くなった大切な者の為に、経を捧げておりました」
背が高く、凛とした佇まい。
田舎暮らしの男でもよく判るほど品があり、育ちの良さが窺える、美しい、年若い僧侶。
旅の途中と思わしきその僧は、目深に網代笠を被ったまま、再び、経の続きを唱え始める。
しかし、男は眉を顰めた。
男はその近くの村で生まれ、一時も離れず暮らしてきたが、このあたりに賊が出たとか、行き倒れが出たとか、そういった話は、一切、聞いたことがない。
ふと、僧侶の経が止まる。
男の疑問を察したか──僧は小さくため息を吐くと、少し困ったように笑い、口を開いた。
「昔……今は遠い、昔の話です。……むかしむかし、小さな二人の子どもがおりました──」
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