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しばらく目の前の真っ黒な木をぼーっと眺めていたから、いつの間にかそんな言葉が口をついて出たのだと思った。
異変を感じた美沙がびくりとして声の方向を振り返ると、そこには背の高い細身のシルエットが薄暗い街灯にほのかに照らされて浮かび上がっていた。
「木村さん……?」
美沙は信じられない気持ちで呟き、立ち上がってその影を凝視する。
こんなところにいるはずのない人物がぼんやりと夜の闇の中に現れる様は、もしかしたら美沙の願望が見せる幻なのかもしれないと本気で思ったのだ。
その幻は何も言わず美沙へ近づき、やがて形をはっきりとさせていった。
悲し気に、顔を歪める宗太その人だった。
「さすがにもういないと思って来たんだけどな。予想外でちょっと動揺してる」
「私も……今来たんだよ。この時間だったら絶対にもういないと思ったから。」
宗太は、そうか、と呟くと小さく苦笑した。
「じゃあ俺たち、結局2人して同じことを考えて、2人して当てが外れたんだな」
宗太はなぜかふっと息を吐くと場違いのように軽く笑うが、美沙にとってみれば全く訳が分からない。
宗太はなぜここに来たのか。
ここに来たということは、それはつまり――。
「美沙」
美沙。宗太の声色で再び紡がれたその言葉が頭の中で何度も反響する。
信じられない。そんなはずはない。
「待って。お願いだから間違えないでほしい。ごめんなさい、私のせいで木村さんもきっとおかしくなってる。でも、本当に大切にすべきものを間違えちゃいけない」
「あれ? 俺呼ばれてきたんじゃなかったっけ?」
宗太がおどけて笑うが、美沙にしてみれば必死だ。
「私……ごめんなさい。こんな風に呼び出したけど、ずっと後悔と恥ずかしさで一杯だったの。木村さんと2人で会ったのなんてほんの数回で、どんな話をしたか思い出そうとしても大した内容が出てこないくらいの短くて浅い関係性なのに。どうしてこんなことしたんだろうって……」
「俺が来て困ってる?」
「……分からない。このシチュエーションは予想もしてなかったから。でも、私たち、正しい道を選ばなきゃいけないよね? もう誰も傷つけたり裏切ったりしちゃいけない」
美沙は再び静かに涙を流す。
「うん……俺もそう思ってたよ。だから本当は来ないのが正解だったし、そこに迷いがあったからこうして遅れて来た。でも、俺たちはそれでもこうして今ここで今向かい合ってるよ」
呼び出したはずの美沙よりもよっぽど意思の強い目で宗太は美沙を見つめる。
美沙が問いを投げかけ、答えるのは宗太であったはずだ。
それが今、逆転している。
「この答えが正しくないのは分かってるんだ。俺だって自分のしてることが怖いと思うよ。でも、そう分かっていてもこの瞬間の感情を選んだのは俺だ。だから」
――君の選択を聞かせてほしい――
宗太が左手をそっと差し出す。
その時美沙の頭を高速でよぎったのは、彩乃のこと、雄吾のこと、世間体、今後のこと、ここまでして彼とうまくやっていけるのかということ。
でも、それらが何周も頭を回るうちに、とうとう考えるのをやめた。
今、美沙は一人じゃない。
両手で宗太の左手をそっと握る。
その瞬間に、宗太が美沙の身体ごと手前へ引き寄せた。
宗太はそのまま美沙の身体を抱きしめ、美沙も初めて安堵の思いで全身を預ける。
宗太の柔らかな香りに、泣きたくなるような幸せが込み上げる。
そして覚悟する。この先の苦難も苦しみも、待ち受けるものすべて。
そして宗太の耳元にそっと囁くのだ。
「一緒に地獄に落ちよう」
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