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冗談めかした調子は、言葉の持つ意味とは反対に、わたしがあなたのことを忘れるはずがないという確信の表れのように聞こえました。その確信は実際、半分は間違っていて、もう半分は正しかったのだと思います。 「その服装、暑くはないのですか」 「うん、暑くはない」 「夏ですよ」 「夏か」 あなたは眩しいものを見たときのように、目を細めました。まるで、たったいま気がついた季節の空気を懐かしんでいるかのようでした。 「それできみは、夏服なんだね」 その言葉を合図にしたというのではなかったのでしょうけれど、そのときちょうどわたしの胸元で、エンジ色のスカーフが風に遊ばれてふわりと揺れました。 半分開かれたままのドアと、正方形の小さな玄関、夏の匂いのする風。 わたしたちは何も言わないまま、しばらく向かい合っていました。 こんなふうにあなたを正面から見上げるのは、とても久しぶりのことのように思えました。わたしはあなたの名前を口にしようとして、寸でのところで飲みこみました。舌の上でその響きを転がしたときの感覚に、意識がふと別の時間、別の場所へ持って行かれそうになったからです。それが一体いつで、どこなのかは、わかりませんでした。それでも、その感覚はわたしに、懐かしい、という感情を呼び起こさせました。 なつかしい。     
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