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年をとると外出が億劫になるが、選挙の日は必ず投票に行くようにしている。その日は投票場の隣にある体育館でバスケットボールの試合が行われていた。老人はふと若き日を回想した。
彼も学生時代“籠球”すなわちバスケットボールの選手だったのである。国家代表選手に選ばれてアメリカや外地・朝鮮にも行って試合をしたこともあるが、その時のコーチ兼引率者は李想白という朝鮮出身の人だった。彼は日本バスケットの父ともいえる人物なのである。
彼は朝鮮(韓国)大邱から第一早稲田高等学院に留学し、その後、早稲田大学と大学院に進学し、学問の方でも優れた業績を残したーーこれは後日知ったことであるが。
代表団入りした老人は想白先生の指導のもと、その技術はめきめき上達した。自身もかつて選手であり、また多くのバスケットボール関係の資料を読み研究した想白先生のアドバイスは適切だった。数年後、先生はバスケットボールに関する著書を出版するが、それはバスケットボール指導者にバイブル的存在となった。
先生はバスケットに関してはとても厳格だったが、普段は気さくで選手たちを映画や食事に連れて行ったりもした。
選手の指導の他、日本籠球協会を設立するなど日本のバスケットの基礎作りも行った。こうした手腕は指導現場を離れてから本格的に発揮された。
想白先生は20代後半の若さで日本体育協会の理事に選任されたのである。最年少の理事だったが年配の著名人理事たちに混じって精力的に働いた。結局、開催されなかったが1940年開催予定だった東京オリンピック誘致の際は裏方として大活躍した。体協は若く有能な外地出身の青年に全幅の信頼をおいた。それゆえ想白先生の出身に対し不適切なことを書いた記者に協会として抗議し謝罪を取り付けたのである。
想白先生自身も朝鮮出身の選手が不当に扱われた時は猛抗議したのである。
時代は戦争へと向かい、体協も戦時体制に組み込まれた。純粋にアマチュアスポーツ団体として活動出来なくなった体協から想白先生を始め多くの人が退いて行った。
その後、先生は学問に専念し研究調査のため中国大陸に渡り日本に戻ることは無かった。
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