prologue

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 出会いに意味があるとしたら、それは後付けの理由でも良い。一人では解けない問題を、二人なら解ける可能性が広がる。 *  そいつは暗闇の中に、突然浮かび上がった。それも、橋の欄干(らんかん)の上。  僅かな月明かりに照らし出されたシルエットは、かなり細い。腰から下の丸みを帯びたラインから、女だと推測できる。彼女は(うつむ)き加減で川を見下ろしていて、今にも飛び降りてしまいそうだ。 「やめろ!」  俺は、夢中になって叫んだ。足が棒のように疲労困憊(ひろうこんぱい)だっていうのに、不思議なほど身軽に駆け出していた。  謎の人物はゆっくりと振り向いて、俺を見下ろす。  黒い頭巾(フード)の下には白い顔。銀の糸のような髪が風に流れている。ギラギラと輝くふたつの瞳が、まっすぐに俺の目を捕えた。  まるで、野生動物のような強さ。それでいて、能面のような冷たい表情から言葉にならない深淵が滲み出ている。この世の者と思えない存在感。なのに、俺はなぜか怖いとは思わない。  手を伸ばした瞬間、強風が吹き荒れ落ち葉が舞い上がる。俺は一瞬立ち止まり、目を閉じてやり過ごした。そして、視線を彼女に戻すと思いがけない変化を目撃した。  妖艶な微笑。ゾクリと、背筋が痺れる。  ―――グラリ  彼女は何の躊躇いもなく真っすぐな姿勢のまま、時計の針のように(かかと)を軸に弧を描いて消えた。俺の見ている前で、真っ逆さまに落ちて行ったのだ。  俺は、彼女が今しがた立っていた場所に勢いのまま体をぶつけ、欄干にしがみつきながら下方に目を凝らす。白い波紋が消える瞬間が見えた。  既に俺の右足は欄干の上に掛かっている。そして、なんの躊躇(ためらい)もなく、勢いのままに空中に飛び出した。  宙に浮いて、時が止まる。  なぜ俺は、彼女を追いかけたのか。疑問が蜘蛛の巣のように絡みつく。自分のスニーカーの下に、半分に欠けた月が雲間に覗いて、俺を見ていた。  地球に引っ張られた俺は、落ちながら走馬燈のように過去を遡り始める。  未だ明かされることのない母さんの不審な死。家庭に背を向け続けた親父の、表情の読めない横顔。心を開かない妹との、ぎこちない日常。それらが一瞬で光る雲の向こうへと遠ざかり、闇に呑まれていく。  暗さで失念(しつねん)していたが、欄干から水面までの距離は高層マンションの五階相当もあったはずだ。下手すると、俺は今ここで死ぬ―――!  見ず知らずの少女のために、俺はなんてことをしでかしたのだろう。  他人に興味が持てなかった薄情者のこの俺が、一瞬で虜にされるなんて。だけど、迷っている暇なんてなかった。身体が勝手に反応した。  迫りくる水面が闇から姿を現す。  ―――ドボン  ぶつかった衝撃は、鉄筋コンクリートとそう変わらない。骨が砕けないように、体の肉という肉が僅かな時間で準備を整え衝撃を吸収する。舌を噛まないように歯を食いしばり、なんとか凌いだ。  水面に深く突き刺さった直後、世界は反転する。  鏡の向こう側に迷い込んだような不思議な感覚に包み込まれる。でも、実際には強い流れに揉まれながらゆっくりと横方向に回転しただけだ。遮断された音の余韻が重いノイズとなり、冷たい水が体温を奪いにかかる。  流れに身を任せながら気泡の中で薄く目を開けてみると、思った以上に暗かった。  どくどくという不吉な音だけが聴こえる。巨大な生き物に飲み込まれてしまったようだ。  嗚呼。俺は死ぬのか―――ここで、このまま死んで、本当にそれで良いのか?  だけど。  生きる理由が、見当たらない。  俺はとっくに疲れ切っていた。  もう、どうなっても良い。  俺が死んだところで、本気で悲しむヤツなどいないだろう。  肺から空気が漏れていく。新しい酸素の変わりに、大量の水が体内に押し寄せてくる。苦しいのに、指一本も自由にならない。死の触手が優しく強く俺を捉える。  木の葉のように流されながら、いよいよ覚悟を決めた、その時。  力強い腕が、俺を抱き絞めた。  目を開けると、先程の美少女の顔が迫る。  唇同志が重なる。  流れ込んできた空気が、死の誘惑を追い払う。  俺の視界は色彩を取り戻した。  必死に水を掻き、水面の向こうを目指す。  今にも零れ落ちそうだった生への渇望が、再び俺を突き動かしていた。
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