蘇る死体【佳純】

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 配られた鑑識の報告書に目を通しながら、セルフサービスの煮詰まった珈琲を汲んだ相良が隣に座る。その瞬間、私のジャケットのポケットの中が震えた。  着信だ。それも啓介からだ。こんな時間に珍しい。  私は静かに席を離れ、廊下に出て非常階段のドアをあけて屋外の踊り場に降りてから電話に出た。 「もしもし?」 『悪いな、仕事中だろ? でも、急ぎで聞きたいことがあるんだが』  電話越しでも彼の声を聞くと、反射的に顔を見たくなる。物騒な事件ばかりを追ってないで、さっさと退職して彼の妻になりたいと最近本気で考えてしまう。 「…何?」  いつも煮え切らない態度で交わされ続け、見込みのない恋愛にどこで見切りをつけるべきか一昨日の夜はベッドの中で散々悩んだばかりだった。  過去にケリを付けられず、未だに離婚した妻の消息を追い求め続ける男に、私は肩入れし過ぎている。  父をあんな風に失ってから錯乱した私は、啓介に期待し過ぎた。ふたつの事件は全く異質の別物なのに、同じように感じていたせいだ。冷静になりたい。  ベッドから抜け出て、甘い余韻と共に消えていく温もりを最後に、しばらく距離を置くべきだと理性は語り掛ける。でも、声を聴いてしまうともう…。意思が崩れ、彼の虜になってしまう。  何とも悲しい性だ。 『昨日の、ラブホテルで見つかった遺体の件だ』  ――――なんで?  思考が吹っ飛んだ。いつも新聞を隅々まで読む彼のことだ。珍しい事じゃない。けど、この瞬間。ザワリと身体の奥が深いな不安に襲われた。 「……なんで?」 『朝刊に出てたからさ』  メディアにはまだ発表していない。新聞社には二行の情報のみを提示している。詳細は一切口外してはいけないケースだ。それにしても、速過ぎる。 「タイミングが速すぎない? 何か知ってるの?」  背後のドアが開いて、相良が半階分上から私を見降ろした。会議室からガヤガヤと捜査員達が流れ出ていくところだ。相棒が何か言おうとするのを見計らって手を翳し沈黙を命じると、案外きちんと命令を聞いてくれる。彼は大人しく、ドアを開けたまま突っ立っている。 『話すなら、会ってからだ。じゃなきゃ、まずいよな?』  啓介も元刑事だけあって察しは良い。 「…そうね。今夜、家に来て。あなたの部屋じゃ二人きりになれないから」 『ああ、解った』  聞き分けの良い恋人は電話をすぐに切った。名残惜しいけれど、仕事中だ。頭を切り替えろ、と自分にも命令を下し、相良の押さえているドアの向こうに勇んで踏み込んで行った。  七年という月日の流れは、(あなど)れない。記憶は絶えず新しいものに差し替えられ、古いものは沈殿する。強烈なインパクトがあった記憶でさえも、何かの理由で急には引き出せなくなる。年齢を重ねると余計に。そして、何よりも先入観が働くと始めから検索の対象から外れてしまうのだ。『蘇った死体事件』は正にそれ。さらには、父の不審な『自殺に見せかけた殺人事件』も闇に葬られた感が拭えない。ふたつは繋がっているのか、いないのかもはっきりとしない。  もっと恐ろしいのが、『連続死体遺棄事件』だ。首は持ち去られ、内臓を綺麗に除去され、両手を重ねられた綺麗過ぎる遺体達。中には指先全てを鋭利な刃物で切り取られた遺体もある。それらさえ、関連する証拠は何一つ発見出来ていないのだ。だから、状況だけそっくりという印象のみによる関連付けをした事件は、やはり個々バラバラにひとつずつ扱うべきなのかもしれない。とはいえ、そうしたいのは山々だけど扱うには相当の時間を要するだろう。なにせ、被害者は百六十六人もいるのだから。これは毎年行方不明となり届けが出される人数のおよそ一割。二十五年という長い年月の間で起きていることを加味すると、行方不明者の中の一部に過ぎない。  人数が増えれば増える程、人間の尊厳が薄められてしまう。年月の問題ではなく、数の問題になる。私達の人生でこうした事件に投じられる時間は限られてしまうから、沈殿した事件が再び浮上することは滅多に起こらない。父が死んでから七年間、ずっとそんなことを考えていた。  今回の被害者は、身分証の入った財布も現場に残されており、さらには車まで駐車場に置かれたままになっていた。車両ナンバーを照合し、免許証でも本人と確認した捜査員は、被害者自宅に向かった。遺族は、変わり果てた遺体と対面するかどうかは難しい判断を迫られることになるだろう。  生活安全課の仕事もかなりの領域に渡る。ご近所迷惑からの通報は年々件数が増えており、痴漢やストーカー被害も後を絶たない。最近では、河川敷で三人の若者がまだ十五歳の少女に寄ってたかって性被害を与えた事件があった。被害者には母親がおらず、父親までもが海外出張中という保護者不在の家庭だった。彼女の兄もまだ高校三年生で、大人扱いするには少し早い。  気の毒この上ないけれど、少女の精神的苦痛を最優先に考慮するならば、事件化させるべきじゃないと私は独断で決めた。レイプ被害は記憶から消えることはない。何年経っても、ふとした時に恐怖や嫌悪が蘇る。一生、そのトラウマ発作と付き合わなければいけないのだ。こういう記憶こそ大人しく沈んでくれていればいいのに…。  愛する人に触れられて漸く怖さが消えても、その彼の心を占拠し続ける過去の女。勝てない相手に私は今も尚、挑み続けている。今夜会える、と思うだけで気持ちが浮足立ってしまう。遠い目をする彼の横顔を永遠に見つめていたいせいだ。啓介を、思っている以上に愛しているのかもしれない。 『トンネル崩落事故が発生。付近にいる車両は今すぐ急行しろ』  無線から緊急招集がかかり、物思いに耽っている時間は終わりを告げられた。 「急げ、相良!」 「言われなくても、やってます!」  Uターン禁止の二車線道路で、助手席の私は点滅しているパトライトを車両の上に乗せ、相良はドラッグストアの駐車場に右折で一旦突っ込み、逆方向へと車を走らせた。サイレンを鳴らして駆けつけた現場で、思わぬものを発見し固まった。  ――――啓介の車。  ボンネットは岩で潰れていたけど、本人の姿がない。他に救助しなくちゃいけない人々がいる。彼の無事を信じて、私は自分の仕事を松任することを決意した。泥だらけになった怪我人や錯乱し泣き叫ぶ人々を安全な場所に退避させ、次々到着する救急車に怪我人を乗せていく。人混みの奥で、見慣れたトレンチコートの背中が見えた気がして駆けていったけれど、啓介はどこにもいなかった。  もう、私の前から消えないで――――!!  声にならない声で、心が叫んだ。
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