満たされない闇【あみ】

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 私を包むこの闇があまり好きじゃない。  昼間の太陽が沈んでからやってくる夕暮れ時の濃い青が、墨汁と混じるように濃い闇へと変化する。その過程さえも、苦手だ。やつらはまるで手品のように、いつの間にかあらゆるものを覆い隠してしまう。そしてあたかも、もうそこには存在していないように誤魔化して、私からなにもかもを奪ってしまうんだ…。  これまで起きたどの出来事も、必ず夜の闇の中で起きた。古今東西、敵が仕掛けてくるのは夜と相場が決まっている。標的の姿をこの目に捉えても、地の理・天の理が結末により大きく影響するのだから、視えないということは不利なのだ。それに引き換え、夜行性の目を持つ生物は夜の天下を取りに来る。水槽に満たされた水のごとく、闇夜に満ちた憎悪や悪意には特有の音や香りがあって、そこを泳ぐ私には何が起きようとしているのかぐらいは気配で解る。解ったところで対策できなければ、意味はないのだが…。  闇に潜む悪意だけが私の敵ではない。もっと原始的な問題は、食料問題だ。私は常に飢えている。自分一人だけじゃ魚を獲るにも限界はある。  いっそ、餓死してしまおうか。そうすれば生きていくために思考も体力も酷使せずに済む。生きるためにどれほどのリスクを背負わなければならないのか、と思うと何もかもがイヤになる。眠りながらも私は考えている。忘れたくても忘れられない記憶の断片が、急に瞼の裏に現れて私を揺さぶりにかかってくるせいだ。  炎に包まれた家。這いつくばって力尽きた女の後頭部。迫りくる車と、赤い血しぶき。地面に叩きつけられた時の、言い様のない激しい痛みと絶望…。助けてくれようとした、優しい手。守ってくれた女達の顔、顔、顔……。私の命は、彼女たちの命だ。そう簡単に手放すわけにはいかない。物乞いをしてでも、食べなければ。生きるために必要なものを食べる。それこそが、今の私にとっての存在理由に他ならない。  なんだか涙が出る。虚しさに潰されて、呼吸を忘れそうになる。  孤独は嫌いだ。闇と同じぐらい孤独なんか、大嫌いだ。      *  目を閉じるだけで簡単に過去に戻れる。あの頃の私は、生きることにさえも罪悪感を抱えて途方に暮れていた。今は、食べることにも困らなくなった。そのおかげで、あんなに苦しかった飢餓感もかなり薄い。時々、震えるほど強く欲してしまうことがあるため、深夜になるとベッドを抜け出して家の外に出ることにしていた。私を娘にした啓介を、傷つけたくなんかない。  彼はとても良いヤツだ。私を見つけたとき彼は驚いていた様子だったけれど、私が不安視したことではない別の視点を持っていた。廃屋の中で一人で生きていた私に、異常なほど強く同調したのだ。私達にはなにか共通のものがある。直観でそう感じた私は、大人しく彼を受け入れた。  探偵・橘啓介は、特別な事情を抱えていた。家族を二度も失っていた。いや、もしかしたらそれ以上かもしれない。真夜中、寝床で祈るような囁き声を何度も聞いた。  私なんかで彼の心が満たされるのなら、しばらくは傍に居てやってもいい。但し、私の中の野生が暴れ出さない間だけに限られてしまうけれど。どうしても、長く一緒にはいられない。それは、とっくの昔からわかっていることだ。傍にいるほど離れがたくなる前に、何とかして彼への情を薄めなくてはいけない。  そんなことを考えながら、持て余す力を発散するためにロードワークに出た時のことだった。月が登らない深夜の河川敷は、山から染み出た土の香りを漂わせた清水が流れているものなのに、昨日からの大雨で茶色く濁っていた。地中に包み隠されたあらゆる生き物たちの残骸から立ち上る異臭交じりの水には、浸かりたくないと思いながら、全速力で走る練習をしていた。微かな高音の声が耳の奥をくすぐったのだ。  それは静電気のようにビリリと私を脅かした。絶望の味が口の中に広がる。心臓が早鐘を打ち、強い悲しみとやり場のない怒りが私の体内で膨らんだ。  誰かが助けを求めている。  肺いっぱいに空気を吸い込んで息を止め、耳に神経を集中させる。  聞こえる、気がする。口を塞がれた声。時々漏れてくるか細い悲鳴。  川が横たわるその奥に目を凝らす。  真っ暗闇の中に、白っぽく浮き上がるシルエットを捉えた。よく見れば、数人の人の形を成しているそれらが、四つん這いになりながら喋っていた。下品な笑い声にも似た男達の言葉は断片的過ぎて、何を言っているのかさっぱりわからないけれど、何をしているのかだけはわかった。おぞましさに全身の毛が逆立つ波に襲われる。  次の瞬間、川に足を踏み入れていたが。増水して勢いを増した川は危険だった。橋を渡らなければいけない。直線距離は近くても、向こうに渡る手段が橋しかないことに、(はらわた)が煮えくり返る。地団太を踏むように踏切って、橋へと向かった。  その間も彼女は屈辱の中で身悶えているのを想像すると、怒りでどうにかなりそうで、歯を食いしばりながら唸り声をあげる。橋のたもとに辿り着いて角を曲がり、欄干の上に飛び乗って走っていくと、今度は何かまた別の気配が背後から私の後ろ髪を引っ張った。振り向いた時、丸く見開いた目を真っすぐこちらに向けて、茫然とした間抜け顔の青年と目が合った。  懐かしい気がした。  でも今は、それどころじゃない。 「やめろ!!」  男の声に胸がざわつくのを感じながらも、私は彼女を助けるために川にダイブした。  落ちて行くデジャブ。  その先に待っている何かに、私の身体の奥に(うずくま)っていた魂が顔を上げた時、すぐに理解した。  強くなるために、私達は今から出会うのだと。
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