イチゴ

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ユヅキの母アヤメは仔犬を 『イチゴ』と呼んだ。 特に説明はなかったけれど それはアヤメが名付けたというより 元々そういう名前だったようだ。 里親の橋本さんという人が そう呼んでいたらしい。 この時は単純に イチゴは『苺』の意味だと ユヅキは思い込んでいた。 「何で真っ黒なのにイチゴなの?」 「だってユヅキは苺が大好きでしょ?」 アヤメはそうはぐらかして笑った。 イチゴの散歩はユヅキの仕事になった。 仕事と言ってもそれは まだ見慣れぬ外の世界と ユヅキを繋ぐ大切な時間だった。 せわしなく角かどの臭いを嗅いでは 突然走り出すイチゴに振り回されながら ユヅキはゆっくりと街並みを観察した。 住宅地に突然現われる 子供の少ない古い公園や 元気なお婆さんがやけに行き交う 見慣れない商店街。 静かな小学校に図書館。 並木道には花開く時期を待てず チラホラとほころびだした桜の蕾が まだ冷たい風に吹かれ微かに震えている。 イチゴの散歩をしているうちに よそよそしかったこの街が 少しずつ打ち解けて 言葉少なに話しかけて くれているような気さえして来る。 ユヅキは引っ越す前 此処『神濃町(しんのうちょう)』は ちょっと特殊な街だと噂で聞いていた。 けれど、思いのほか 変わった様子も何の変哲も無い街並みに ユヅキはほっと胸を撫で下ろした。
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