茜の覚悟

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 50年前と比べてあらゆる技術が目覚ましい進歩を遂げてはいるが、地上に蔓延るヒトスジシマカを絶滅させ、奴らの影響によって様変わりした環境を、人間に適したものに整え直すことは不可能に等しいとされている。氷河期が来て、地上が氷漬けにでもならない限りは。  私が子供の頃は「何としても地上奪還を」と声高に唱える政治家が多かったけれど、このところは地下世界での暮らしをより快適なものにするための公約を掲げる政治家の方が目立つ。  それに、諸外国のシェルターと比べて地殻変動の影響を受けやすい日本は地震への対応が最優先課題。国の災害対策本部に属し、地震に関する研究を行っている私の主人は「地上に帰ること」など微塵も考えてはいない。私同様、地下世界での暮らしに不便さも不満も感じていないからだ。  地上は朝や昼、夜の変化が顕著で、日々の生活は天候に大きく左右され、季節は目まぐるしく移り変わり、時に命を落とすほどの過酷な暑さや寒さに振り回される―――明らかに、地下世界での暮らしの方が快適だ。  こんな風に、地下での暮らしを受け入れる考えが主流になり、地上へ帰りたがる人間が少しずつ数を減らしていることを母は「日本の未来は次世代の人間が決めること」と寂しそうに受け止めている。  それでも自らの願いだけは諦めきれないのだろう。 「もう一度、あのきれいな茜色の夕焼けが見たいねえ」  光でできた偽りの炎が揺らめく暖炉の前に座している母が、ぽつりと呟く。最近の口癖だ。炎の赤さに、昔見た空の朱さを重ねているのか。 「あかね!」  母の横に寝そべっておえかきをしていた私の娘が、ふと顔を上げる。 「おばあちゃんの名前だ! どういう意味があるのー?」 「『あかね』っていうのはね、色なのよ。真っ赤な色のこと」 「じゃあどうして『真っ赤』って名前じゃないの?」  少し考えるそぶりを見せた後、母は「あの赤さは、言葉で表現するのが難しいね」と困ったように笑った。 「いつか、(もえ)ちゃんにも見せてあげようね。あかね色のきれいな夕焼け空を」 「ほんとう!? やった、約束だよ!」  諸手を挙げて抱きついてきた萌に頬を寄せ、母は嬉しそうに何度も頷いた。母は私を30半ばで、私は萌を40過ぎに産んだから、遅くできた孫が可愛くて仕方ないのだ。  だからといって、無責任な約束をするのはやめてほしいが。
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