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「……あの、私はあなたと会ったことがありますか?」
首に下げていたカメラを下ろし、彼女は僕に尋ねた。
「いえ、初対面のはずです」
僕が言うと、彼女は悲しそうな顔をした後に「そうですか」と俯く。
これで良いのだ。僕にとっても彼女にとっても、お互いに関わらないのが最良の選択。
今の彼女にとって、僕はただの他人だ。僕が居なくても、彼女の日常に支障は出ない。
「……どうして、泣いているんですか?」
気づけば、彼女が僕の顔を覗き込んでいた。
いけない。これ以上ここに居ると、抑えられなくなる。決意が、揺らぐ。
「いえ、何でもありません。ご心配ありがとうございました、では」
彼女に背を向け、僕は来た道を引き返す。
「――あのっ!」
振り絞るような彼女の声がした。
僕は振り向かずに、歩みを止めた。
「また……また、会えますか……?」
かすかに震えている声色。
僕は、感情が表に出ないように、努めて冷静に答えた。
「きっと、いつか、縁があれば」
再び歩き出そうとする僕を、再び彼女が引き止めた。
「あの、最後に、これを貰ってくれませんか?」
僕のもとまで歩み寄って、カバンの中から何かを取り出す。
彼女が渡してきたのは、一枚の写真だった。淡い紫色の、ネリネ。
「えっと、この花は――」
「知ってますよ」
説明しようとする彼女の言葉を遮り、僕は写真をポケットへ入れた。
「では、さようなら」
「……はい」
今度こそ、僕は歩き出す。
しばらく歩いて、僕の頬を雫が伝う。
僕はポケットから写真を取り出す。
僕は知ってるから、説明は要らない。
彼女の誕生花であるその花のことを。僕と彼女で育てた、思い出の花のことを。そして、なぜ彼女が僕にこれを渡したのかも。
もう、彼女に会うことはないだろう。
それでも、願わくば。十年、二十年、来世でも……。
僕はこの花を忘れない。そう、せめて。
――また会う日を楽しみに、と……。
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