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初めて見る顔だった。演技ではない、張り詰めたような真剣な顔。その瞳に、言い様のない決意の炎が宿っているのが見えた。
俺は皮肉にも、このときに初めて父の人間臭さを見た。思い知らされた。父は無機質に何でもこなせるロボットなんかじゃなくて感情のある人間なのだ、と。
母が堪らずわぁわぁ泣き出した。もうどうしようもなく、関係の修復は不可能なのだと悟ったのだろう。そのときの父の顔は、おそらく母にとっても初めて見る表情だったに違いない。
父は晴々としたように表情を崩し、片一方だけ記載された離婚届を置いて立ち上がった。
『……律、母さんを頼む』
俺は父の憑き物が落ちたような晴れやかな顔を見ながら、『身勝手ですね』と一言だけ言った。
父が『すまない』と困ったように微笑んだので、俺もなぜだかそれにつられて笑ってしまった。
それが父との最後の会話である。
父はそのまま家を出て行ってしまい、翌日には議員を辞職した。
しばらくはそのスキャンダルが世間を騒がせたけど、世間が叩くべき父が議員でなくなったからか終息するのは他のスキャンダルと比べて早かった。むしろ議員辞職が早くて潔いなんて意見もあったくらいで。
世間は勝手だ。引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、後片付けもなくあっという間に去っていった。
残されたのは、何の肩書きもなくなった俺と捨てられた可哀想な母だけ。
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