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「……可哀想なお母さん」  母の手を取り、俺はそう呟いた。  2年前のあの日から、母は毎日泣いて、やがて心を壊した。母にとって、泣かないで済む唯一身を守る方法がこうやって何もかもわからなくなってしまうことだったのかもしれない。たぶん人間の防衛本能みたいなもので、今の母は強い苦しみや悲しみから逃れられている。  母の中では今も父は自分の夫で、国を支える立派な大臣なのだ。 「……愛する人に裏切られても、まだ戻ってくると信じて疑わないんだね」  小さな、母に聞こえないような本当に小さな声で俺はそう言った。  可哀想なお母さん。心を壊しても父のことだけは忘れない。 「律はお父さんの後継ぎなんだから、しっかり勉強するのよ。官僚の仕事は議員になるための布石なんだから」 「わかってますよ、お母さん。だから今日も仕事に行ってきますね」  ごめんね、お母さん。俺は官僚じゃない。地元のお巡りさんになったんだ。  たぶんそんなことを言ったら半狂乱になるだろうから言えないけど。  ある意味、母がこの状態だからこそ警察官になれたと言ってもいい。そうでなければ、母の悲願で無理にでも官僚になっていたところだろう。  今度は議員である父のための人生ではなく、可哀想な母のための人生に。たぶん、俺はそういう生き方しかできなかったと思う。
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