前編

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るんです」 「フフ、確かに覚えやすいですね」 「でしょ?」 彼が子どもみたいに喜んだ表情を見せるので、それがなんだか可笑しくて、彼女はまた笑みをこぼした。 彼はそのまま、この川に関すること、今まで撮った写真や桜の豆知識を、ときたまジョークを混ぜて話してくれた。そして彼女も、自分の体験したことや今まで出会った被写体たちのことを、心地よい空気の中で、互いに話し、共感し、笑いあった。 時が過ぎるのは早い。そうこうしているうちに雪は止み、半刻過ぎがたったころ、女性はふと腕時計を見て、はっとした。 「ごめんなさい。ちょっと今から用事があって…、オオカワさんと話せてよかったわ」 話してくれてありがとう、と彼女は足早に去ろうとしたが、何か思い出したのか、足を止めて再びこちらを振り返った。 「アケミです、私の名前。たぶんまた、ここに来るとおもいます。その時はまた、面白い話聞かせてください」 彼女が駆け出すと、彼は彼女に聞こえるように、声を張った。 「それじゃあ、覚えておいてくださいねっ。私の名前はオオカワですよっ」 彼女はふふっ、と笑うと、 「忘れるわけないじゃないですか。忘れませんよっ」そう言ってまた、彼女は駆け出していった。 遠ざかる彼女の背中に、彼はまたゆっくりとカメラを構えた。 「本当に、絵みたいだ…」 シャッターをきる彼の眼は、あの寂しげな色を浮かべていた。カメラの画面に写るその背中をスライドすると、過去に撮った写真が順番に写し出された。そこには、同じ背中が何度も現れていく。10枚、20枚、それよりはるかに多くの写真が、同じ姿でそこにあった。所々、景色や季節が異なっているが、それが余計に、何度も同じ構図で描かれる絵のように見えた。 これは彼女を救えなかった僕への罰なのかもしれない。前向性健忘症、彼女は一度眠りにつくとその日のことを忘れてしまう。原因は彼女とのドライブデートで起きた事故、そこで強く頭を打ち付けてしまったこと。彼女は僕のことを覚えていなかった。彼女の両親はもう彼女に会わせてはくれない。偶然再会したこの川のほとりで、彼女がここへ来続ける限り、この時間が彼女にとって一分一秒でも楽しいものになるのなら、そして彼女が忘れてしまう過去を一瞬でも記憶として残せるのなら、僕も何度でもあなたの写真を撮ろう。それがあなたの幸せに繋がるのなら…
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