第一章

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 1443(嘉吉3)年――  相良堯頼は、9代目である父:前続(さきつぐ)の急死により、若干11歳で相良家の十代目当主となり、人吉城の城主となった。  当時、相良の一族は、かつて京都で巻き起こった南北朝の争いの影響が後を引いており、『上相良』:多良木相良と、『下相良』:人吉相良との間で対立していた。  1448(文安5)年の2月末――  多良木相良の当主らが、1000人超の兵を集め、深夜に人吉を襲撃した。  堯頼は不意を突かれ、若年でもあったため、家臣を纏めることもできず混乱してしまう。  そこで、先代が開基した永国寺の住職:大蟲超虎和尚を伴い、僅か数名の家臣を連れて峠を越え、隣国の大隅国菱刈郡を目指して逃亡した。  堯頼が逃亡したことで、家臣の謀反が相次いだ。その中にあって、八重尾帯刀、萬江勘兵衛、高畑十郎左衛門、深水勘解由ら忠臣たちは最後まで戦い抜いた。  その抵抗も虚しく、人吉荘は多良木相良に占領されてしまった。  だがすぐに、下相良に属する分家:永留(ながとめ)家の長続(ながつぐ)が多良木相良を追い返し、人吉荘を奪還した。  長続が堯頼の行方を探したところ、山を越えた菱刈郡の牛屎院(うしくそいん)で発見された。  人吉への帰国を求める長続に対して、堯頼は、「敵前逃亡した自分は、当主の器にない。一族のために身を削った長続が11代目になるべきだ」という旨を伝えた。  両者の主張は平行線が続いた。  約1ヵ月後の、同年3月28日――  堯頼は、16歳の若さで急死した。  これまで手塩に掛けて育てていた愛牛に股間を突かれ、その傷が悪化したためだった。  ただ、一説には、堯頼の帰国を望まない者による謀殺だったとも伝えられている。  堯頼の墓は、菱刈郡の側では、小苗代にある永福寺薬師堂にあり、一方の球磨郡の側では、大村の了法院が牌所とされている。  ちなみに、その後、長続は堯頼の言伝通り、相良家の11代目当主となり、上相良の多良木家を滅ぼして相良家の統一を達成した。  また、堯頼の逃亡に同伴した大蟲和尚の永国寺は、長続の援助によって再興がなされた。  以降、相良家は、明治維新による廃藩置県に至るまで存続するほどの長い歴史を持つ、数少ない大名家となった。
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