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「八月を日本の古語では、紅染月、と言うそうですね」
そんな僕を後目に九王沢さんは、目を輝かせて言うのだ。紅い光に染まった夜空はまさに、その言葉に相応しかった。
「魔法の時間です。今はちょうど、『紅染月の魔法時間』かも知れないですね」
降り注ぐ光の中で九王沢さんは、その天の使いのように微笑むのだ。
「わたし、今、感動しています。那智さんとこうやっていられて幸せです。また来年もこうやって花火に連れてきてくださいね?」
(そうか)
ありのまま、感動したことを書けばいいのだ。人を感動させることなど、本質的には出来ない。自分の感動を、伝えることが出来なければ。吹っ切れた。これだ。それから僕は足早にアパートに戻ると、一気に思いの丈を書き上げた。タイトルはそのまま、『紅染月のマジックアワー』だ。九王沢さん、驚くぞ。これぞ、感動する小説だ。
「ボツ…ですね」
轟沈だった。徹夜で書いたのに、起き抜けの九王沢さんに一刀両断された。
「何を表現したいのかは、分かりますよ。でもたぶん、那智さんのこと、よく知らない人だと、なんのことだか、判らないと思います」
感動ってムズカシイ。やっぱ、なんのこっちゃだ。
(魔法の時間、か)
九王沢さんがあの晩、言っていたフレーズがその途端、頭に引っかかってきた。あれはまさに魔法の時間だったのだ。
それはほかの人にはありふれていたとしても、そのときその場所にしか現れない、再現不可能な魔法の時間。そんな魔法の時間を人と共有するのは難しい。あの晩、それを九王沢さんとだけでも共有できたことが、まず奇蹟なのだ。
「先輩、それで原稿は?」
「あっ」
秋号には九王沢さんの文句のつけようのないエコール・ド・パリの美術と文学の論文が載った。インターネットで話題になったお蔭で学術畑に好評になり、他大学からも教授が買いに来た。
ちなみに。おまけに掲載された、原稿を落とした僕の全身全霊の謝罪文と依田ちゃんの講評会での容赦ないダメ出しとバッシングが、文芸部員全員の涙を誘ったことは言うまでもない。
この秋、全文芸部員が泣いた。
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