第1章

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1 ――あ、風が揺れた。  ふと空に顔を向ける。春の日差しが暖かい。立ち止まり目を瞑る。耳には心地よい音楽が聴こえてくる。どこからだろう?音が風を揺らしたんだ。  小夜子は、目を開けると音の方向を向く。並ぶ家の一角から零れてくる。それは春の音だった。でも、いままで聴いたことがない。ピアノだからクラシックかなと思ったけど、知らない曲だ。もしかしたらオリジナルってこともあるのかな。小首を傾げながら音に身を委ねた。小夜子の指も一緒に鍵盤を叩いていた。 「おかあさんただいま」小夜子は散歩から戻り母に声をかける。 「どうだった?また引っ越しでごめんね」母は申し訳なさそうに言う。  母の都合での引っ越しだった。母は音楽の教師であり、異動が何年かに一度ある。これはしかたのないことだ。そのたびに引っ越しをしているので慣れたものだ。引っ越しと言っても県内だけだし、高校生の小夜子は転校するわけでもないので、通学の便が変わるだけの苦労だ。それに初めての土地は新鮮だ。小夜子はその土地の匂いを嗅ぎたくて引っ越したら必ず散歩に出るのだった。 「音楽があった」あの春の音楽を思い出しながら答える。 「ピアノ?ほかの?」 「ピアノ。春の音だったよ」 「素敵ね。刺激になった?」 「うん。弾いてくる」そう言うと隣の部屋に移動する。  防音の部屋を探すのがいつものことながら大変なようだ。小夜子もピアノを弾く。コンテスタントで、中学生の頃には何度か表彰されている。17歳になった今、大きなコンクールでの入賞を狙っている。  漆黒のグランドピアノの前に腰をおろす。蓋を開け、えんじ色の布をめくる。白と黒の小人さんに挨拶をする。今日もよろしくね。指を開いたり握ったりする。片方の指をもう片方の手で、手首の側に伸ばす。軽く手を振って、鍵盤に手を乗せる。  ひとつ息を吐く。そして指をおろす。  空気を震わす音。今日の鳴りはどうだろうかと思いながら好き勝手に演奏する。特に決まった曲とかではなく、即興曲であったり、どこかで聴いたポップスだったり、童謡だったり。準備運動の意味合いでリラックスして楽しんで弾く。  ふとさっき聴いた春の音を思い出し、倣ってみる。
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