第1章

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 ちょっと違う。少し温度が足りない。春ではなく冬になってしまう。何が違うのかなと首を傾げながら強弱や音を少し変えながら弾いてみる。でもあの音は出せない。どんな人が弾いているのだろうか。音には人柄が出る。春のような人なのだろうか。暖かさを連れてくるのだろうか。そう考えたらいつのまにか鼻歌まじりに弾いていた。飲み物を持ってきてくれた母が驚きながら、「今日はご機嫌ね」と笑いながら出て行った。そうだ、ピアノを弾きながら鼻歌なんてコンクールで入賞するようになってから一度もないかもしれない。小夜子はそれに驚き、少し悲しみ、でも久しぶりのことに胸が弾んだ。  新年度になり、桜が散り、雨と晴れを繰り返しながら気温が上昇する。それと共に小夜子の練習にも熱が入る。今年はショパン国際コンクールのプロフェッショナル部門を目指す。国内最高峰の大会のひとつだ。今よりももっと高みに行かねば入賞はほど遠い。でも、目標が高いほうが小夜子は好きだ。そしてピアノが好きだからこそ頑張れたし、一定の結果を残してきた。  春が終わり、夏がやってきた。  小夜子は息抜きに散歩をした。真夏日の気温に日傘を持ってくるべきだったかと後悔し始めた頃、風が揺れた。あ。  あ、今日は夏の音だ。暑さが伝わってくる。でも、その中に涼しいものが交じっている。風鈴の音やかき氷の冷たさ、海やプールでの解放感。一時、せみの声を忘れ目を閉じた。  不意に音が止んだ。目をそっと開ける。音のしたほうを見ると、二階の窓が開く。カーテンが風にはためく。その影から人の顔が覗く。男の人だ。まだ若い。小夜子と同じくらいだろうか。前髪が目を隠すほど長い。寝ぐせなのか横の毛が少し立っている。そして。  そして、透き通るほど肌が白い。白すぎて青い。それがとても眩しくて太陽を見るようだと目が眩んだ。一瞬目が合った。ような気がする。彼の口が、あ、と言った。ような気がする。  眩んだ。小夜子はその場で倒れた。暑さが堪えた。  どれくらいたったのだろう。重い瞼を開く。知らない天井。涼しいなぁとぼんやり思いながら顔が火照っているのを感じる。額にはぬるくなったタオル。それが取られたと思うと水の音。タオルを絞る気配。ひんやりとしたタオルが気持ちいい。そっと手をタオルに近づけた。あ。  手のぬくもりを感じた。あ。
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