第1章

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 残暑厳しい日。夏休みが終わる直前、小夜子は母と連れ立って正太郎の家を訪ねた。 「別によかったのに」わざわざありがとうと正太郎は笑顔で迎えてくれた。  つまらないものですがと日本人らしい挨拶で菓子折りを、正太郎の母に渡した。連絡をしてから訪ねたので今日は正太郎の母も家にいてくれた。 「ありがとうございます。今、飲み物出しますね。小夜子ちゃんあれから体調は大丈夫?」優しそうな正太郎の母が柔らかい口調で聞いてくる。 「はい」大丈夫ですと元気に答えると、安心したように何度も頷いていた。  リビングで出された冷たい麦茶を飲むと、夏を一層感じた。小夜子はこないだ聴いた夏の音を思い出した。 「ピアノ聴きたい」ふと口に出してしまう。  あらあらと正太郎の母は目を丸くする。いきなり何を言うのと小夜子の母はたしなめる口調で言いながらも、話を聴いていたので興味を持っているのが隠せていない。 「ん。いいよ」正太郎はあっさり言うと立ち上がり、リビングを出ていく。  つられて小夜子もあとをついていく。 「なんだかすいません」小夜子の母が頭を下げる。 「いいんですよ」正太郎の母はこともなく言う。「どうせこのあとも弾くはずだったし、ピアノだけが生き甲斐みたいなもので。私は音楽はダメなんですけどね」  ピアノの置かれた部屋にそっと入る。正太郎はさっと椅子に座ると慣れた手つきで演奏できる状態にする。  ちらっと横目に小夜子を確認すると何も言わずにいきなり、右手をおろす。  雷が鳴った。  小夜子はびくりと肩を震わせ思わずすくんだ。  矢継ぎ早に音が降ってくる。それは夏の風物詩でもある、激しい夕立だ。左手は優雅に音を添えている。右手は激しく動き、大きな音をはっきりと鳴らしている。一音一音が胸に響く。雷鳴がこだまする。  徐々に音が緩んでいく。雷雲が去っていくと共に音も去っていく。  雷が去ったあとのじりじり焼くような太陽、突き抜ける青い空。そんな爽やかさと残酷さを、うねるような手が紡ぎ出していく。これはいったいなんだ。  正太郎の横顔を見る。終始にこやかだ。汗ひとつない。青白い顔が一層輝きを増している。なんて軽やかに音を紡ぐのだろう。そしてなんて簡単そうに複雑な音を織りなすのだろう。
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