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女性の声に反応して、その白い毛玉がくるりと向きを変えた。二つの赤い目が、まっすぐに女性を見つめる。女性はその物体の顔を見て、懐かしさを覚えて更に柔らかく、表情を緩めていった。
ケージの中に鎮座する毛玉の正体は、ウサギだった。
アンゴラウサギという品種だ。
アンゴラウサギのその全身は長い毛──それも、十センチにもなる長毛に覆われ、初めて見る人は兎には見えないかもしれない。しかし、曖昧な輪郭の中にもピンク色に光が透けた兎特有の長い耳は確かに確認できる。
男が勤めているこの養兎場にはかつて数万羽ものアンゴラウサギを飼養していた。しかし、残ったのは男が眼下に抱えている一羽のみ。この養兎場はウサギを飼育する役割を終え、もう引き払うところだった。
訪ねてきた女性、鈴山チセは、その最後の一羽を引き取りにこの養兎場に来たのだった。
「今日はお車でいらしたのですか?」
鈴山チセはまだ腰もそう曲がっておらず、壮健に見える。しかしウサギはケージを含めて重さ四、五キロはある。男はチセを気遣ってケージを手渡すのをためらった。
「ええ。表に車を待たせているの」
「なら、車までお持ちしますよ」
「ご親切にありがとう。とても助かるわ」
「いえ、いえ。構いませんよ」
男は人の良い笑顔を浮かべて答え、名残を惜しむように眼下の毛玉に慈しみの目を向けた。自分が手を離した時、男はこの毛玉と永訣する。
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