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少女に、答える気力は残っていない。それでも、ジェイナスの言葉を解したらしく、わずかに頷くと、拳をゆっくりと開いた。
――居並ぶ兵士たちが、目を瞠った。少女の掌の中から、現れたもの。それは、野球のボールであった。
ジェイナスが、視線を上げる。
瓦礫と化した、リビングルーム。壁にかかった写真が、ジェイナスの目に留まった。
優しそうな、日本人の父親と、アメリカ人の母親。そのふたりの間に、リトル・リーグのユニフォームをまとった、得意そうな笑顔の少女。幸福だった記憶の断片が、泥まみれの壁に、かろうじて張り付いていた。
――衛生兵が、少女を担架に乗せて、運んでいった。その後ろ姿を見ながら、ジェイナスが下士官に向かって口を開いた。
「ゾンネンフェルド曹長」
「は、大尉殿」
「この子を大至急、横浜の野戦病院に後送しろ。必ず助けるのだ」
「イエス・サー」
少女のあとをついて、ふたりの男が、ゆっくりと歩き出した。深い泥に軍靴を取られ、よろめきながら。
「なんて娘でしょう。海兵隊にだって、あれほどタフな者はいませんよ」
「あの娘は、普通の人間ではない。特別な力を持った人間だ」
ジェイナスが頷いた。「治療が一段落したら、彼女をアメリカに迎える。それが、ホワイトハウスからの指示だ」
「では、やはり」
「そうだ」
サングラスの奥で、灰いろの目がぎらりと光った。「彼女に、アメリカの覇権がかかっている。何百万という被災者を放り出して、政治的駆け引きに熱中している東京の政治家たちに、任せておくわけにはいかない」
「彼女を、アメリカ市民にするのですね」
「そういうことだ」
ジェイナスが、輸送用チヌーク・ヘリのタラップに足をかけた。
「彼女は、私の養女にする。――ユウキ・夢原・フェアチャイルド。それが、彼女の新しい名前だ」
衛生兵たちが、てきぱきと担架を固定してゆく。それを見ながらジェイナスとゾンネンフェルドが腰を下ろすと、チヌークのローターが、ゆっくりと回転を始めた。
冷たい雨が、いよいよ強く、泥まみれの大地を叩き始めていた。
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