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Aメロが終わり、サビに入ると、僕は押さえていた感情を解放する。この時、つむっていた目は、微睡んだように薄く開き、左手は胸に添える。そして、サビが終わりに向かうにつれて、解放した感情を静かに収束させていく。自分が恐ろしくなるほどの歌いっぷりに、僕は満足する。
ここでいつものように、倉ちゃんが爆笑する。
「いつになったら難破すんだよ。順風満帆じゃねえか」
僕は気にすることもなく、歌い続ける。歌っている時の僕は、『よしくん』ではなく、『明菜』なのだから。
歌い終わると、マイクを置きながら、誰に向けるでもなく深く礼をする。更なる倉ちゃんの大爆笑と、咲ママや女の子からの拍手で迎えられた。
「いや、よしくん、いつ聴いても本当にすごいね。ある意味、明菜越えたよ」
倉ちゃんのセリフにも僕は冷静だ。この歌いきった後に訪れる、僅かな波紋すらもない水面のような、静寂とした心持ち。店内の喧騒すら、小鳥の囀りのようだ。
「よしくん、良かったわよ。さあ、とりあえず乾杯しましょうよ」
咲ママの言葉に倉ちゃんも同意して、僕らは焼酎の烏龍茶割りで乾杯をする。
「よし。俺も歌うか」
そう言って、倉ちゃんはリモコンを手にした。まあ、僕の後に倉ちゃんが歌う曲はいつも決まっている。アンサーソングでもあるまいに。
イントロが始まると倉ちゃんは席を立ち、店内のボックス席の壁にかけられたモニターに向いた。曲はお決まりの『十戒』だ。そして、これもいつものことだが、歌詞頭の『愚図ね』を『クズね』と替えて、僕を指さし、歌い始める。倉ちゃんに言わせると、『十戒』は僕のテーマソングらしい。僕の別れた彼女が、カラオケボックスで泣きながらこれを歌い、最後にはマイクを僕に投げ捨て出ていった。その場に居合わせた倉ちゃんは、それからこの曲が気に入ったらしく、いつも僕の前で歌うようになった。まあ、倉ちゃんなりの慰めかもしれないし、面白がってるのかもしれないが、僕には何故彼女がこれを歌ったのかは理解できない。倉ちゃんに言わせれば、そういうところがクズらしい。
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