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受付を済ませ部屋に入るなり、倉ちゃんは早速リモコンで『難破船』を入れる。
僕は、はいよと渡されたマイクを受け取り、流れてくるイントロに気持ちを集中する。今夜の『難破船』はちゃんと難破して聴こえるはずだと思いながら。
歌い始めから、今までにないほどに気持ちがシンクロする。サビに入るとそれは益々率を上げ、僕は確信する。絶賛難破中と。海の底に沈みながら、海面越しに見える月が、ゆっくりとボヤけていく様まで浮かぶ。
サビが終わり、僕が気持ち良く難破していると、いきなり音がブツッと途切れた。
「これは、よしくんの『難破船』じゃない」
倉ちゃんが、そう言って僕を見ている。
僕は、これまでにないほどの難破っぷりを邪魔されて、フラれた倉ちゃんのことも忘れて抗議をする。
そんな僕の抗議に、倉ちゃんは静かに言った。
「これじゃあ、元気が出ないよ。もう一回、いつものよしくんで歌ってよ」
その言葉に僕は戸惑ってしまうと共に、そうかとも納得する。倉ちゃんの求めてるのは、落ち込みの共感ではなく、励ましなんだと。だが、いつものと言われても、はたして上手くいくだろうか? この難破の真髄に手をかけてしまった僕に。
そんな逡巡も赦さぬがごとく、またイントロが流れ始めた。
僕は気持ちをリセットするために、咲ママと楽しそうにしていた倉ちゃんを思い出した。意識をスナックに飛ばす。二人の前で歌った『難破船』。自分では難破したつもりになっていた、あの時に。
歌いながら倉ちゃんを見ると、その顔には笑みがこぼれている。どうやら、望み通りにいっているみたいだ。
最後まで止められるなこともなく、僕が歌いきると、いつものように倉ちゃんは言った。
「なんで『難破船』聴いて、元気でんだよ。全然難破してねえじゃねえか」
僕もいつものように思う。元気が出るならいいじゃないかと。
「よし! 次は俺だ! クズに捧げます!」
そう言って、倉ちゃんはいつも通り『十戒』を歌い始める。
結局、僕らは朝まで歌い続けた。遊んで徹夜明けで仕事に行く歳でもないだろうに。
外に出ると、冷たく澄んだ空気と、鮮やかな青に包まれた優しい太陽の陽射しが、晴れの一日を予感させる。
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