長男・春彦

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ある日の昼下がり。事件はいきなり起きた。 「1ヶ月間、部屋を貸して下さる?お金は幾らでも払いますから!」 そう言って、真っ黒のカードを差し出したのは、俺より少し年上の女だった。 つばの広い黒い帽子、黒のワンピース。肩までのストレートヘアを、耳の後ろで1つに纏めている。丸いサングラスは大きすぎて、彼女の小さな顔をほとんど隠してしまっていた。辛うじて見える唇には、真っ赤なリップが塗りたくられている。 この老舗旅館が全く似合わない彼女は、まるでハリウッドセレブがテレポートして来たんじゃないかとバカな妄想をしてしまうくらい、異様な空気を放っていた。 「ホラ、早くしなさい!」 圧倒されて何も言えなくなっていた自分を、慌てて現実に引き戻す。 「…ご予約ではございませんので、長期の滞在となりますと、お部屋のご移動をお願いする場合が御座いますが、宜しゅう御座いますか?」 「何でもいいから早くして!」 「…かしこまりました。ではこちらにご記帳をお願いします」 念のため、カード情報を控える。 KAREN SHINOMIYA。金持ちそうな名前だな、と内心思っていた。この歳でブラックカードなんて、どこかのご令嬢だろう。 カードを返して、宿泊者名簿に目を落とす。と、そこには「田中 花子」と明らかに偽名が書かれていた。 「…あの、お客様」 「なに!?」 「カードのご名義と、こちらのお名前が異なります。大変恐縮ですが、こちらのカードはご利用頂けません」 本当は偽名だと法律違反なんだけど。「偽名ですよね?」なんて失礼なことは言えないのでそう言うと、彼女は少し狼狽えた後に篠宮(しのみや) 華恋(かれん)と書き直した。その後、サングラス越しに俺の様子を伺ったのが分かったが、「ありがとうございます」と言うと満足そうに口角が上がった。 「では、お部屋にご案内致します」 たまたまそこに居た次男の恋人に目で合図して、空いている部屋に案内させた。
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