第三章 瓦解

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 1994年10月後楽園ホールで世界戦が行われ、はじめは有頂天だったが、収支は散々たる結果であった。洋子は、世界戦の収支結果を社長に報告した。「世界チャンピオンに対する協賛金300万円とプロモート手数料の差し引きだけでも200万円の赤字です。手数料が100万円しか入らないのならやる意味がありませんよ。」「差し引き200万円で会社名が世間に売れたなら安いもんじゃないか。」「そういう問題じゃありません。その他会社の業績も見て下さい。このままでいくと10年後は赤字に転落してしまいます。」「まだ黒字ならそんなに慌てなくても大丈夫だよ。それと君さえ良ければ、君の特集記事をやりたいという話が来ている。会社のために協力してくれないか。」「もう芸能界を捨てた身です。それでも社長が受けて欲しいと言われるのであれば、会社のために受けてもいいです。その代わりもっと真剣に業績のことを考えて下さい。」「分かった。久 しぶりだな。君と喧嘩せずに話ができたのは。赤木が持ってきた話だから、君の了承を得たと伝えるよ。」洋子は、赤木の名前が出たので少し不安になった。  洋子は34歳になっていたが華のある女だった。バツイチだが配慮があり人気もあった。おまけに独身を貫いていた。男の噂が珍しくない女だった。  取材は11月下旬からはじまり12月上旬まで続いた。本社と丸の内、晴海ふ頭で写真撮影が行われた。フェニックスタクシーの車も写真には収められ、必ず洋子とセットで写された。新年号の特集記事になる予定であった。  年が明け、洋子とフェニックスタクシーが載った特集記事が出ると瞬く間に時の人になった。はじめは、自分のことのように喜んだ。問い合わせも無線室にも入る有り様だった。いくばくか売上に貢献した。その裏で赤木は出版社からの手数料をピンハネしていた。このような話題づくりも業績を変えるには力不足であった。そんな中で、阪神・淡路大震災が1995年1月17日に起きた。だれにも予測がつかない出来事であった。洋子の話題も一瞬にして打ち消した。     
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