合歓木(ねむのき)の家

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 合歓木の花が桃に似た香りを放ち出すと、それは僕にとって今日の終わりの合図でもあった。開いた花の代わりに合歓木は葉を閉じていって、夕闇に漂う甘やかな香りの中を、僕はとつとつと家に戻るのだ。  叔父を家長とするその家には、従兄弟が二人居たのだが、歳の近い彼らと遊ぶことをせず、独り合歓木の下に居る僕を、祖母や叔父夫婦はどうしたものかと思っていたらしい。しかしあの頃の僕は自分勝手なもので、あまり親しみの持てない彼らと見知らぬところへ行くよりはと、合歓木の葉の下で思いにふけり、たまに川の渦を覗き込んでは怖がったりと、ただそうしていたのである。  そうしたある日、いつものように勝手口を出て合歓木に向っていた僕は、木の前に立つ従兄弟たちを見つけた。兄の方が肥後守(ひごのかみ)を手にしていて、こいつには鋸(のこぎり)もついてるんだぜ、と前の晩さんざん僕に見せびらかしていたその小さな折りたたみナイフを、一本の枝に当てている。  駆けた。止めてよ! と叫びながら、従兄弟の腰に組み付いた。しかし僕は軽々と彼に振りほどかれ、組み敷かれ顔を何度もはたかれた。彼の口からこぼれ出た、いい気になりやがって、だれのおかげで、といった言葉の断片からすれば、いっこうに馴染もうとせぬ僕を、彼はやはり疎んでいたのだろう。  泣き声を上げない僕に呆れたのか、やがて彼は殴るのを止めると、困った顔で争いを見ていた弟を連れて、どこかへと遊びに行ってしまった。  起き上がり、従兄弟が鋸を当てていた枝に近づいてみた。僕の腕くらいの太さのその枝には、可哀相なことに、鋸歯のあとが幾筋か残っていた。幸い傷はそれほど深くはなく、樹皮が傷ついているくらいだったのだが、痛そうだったので、普段自分が怪我をしたときのように枝の傷を舐めてしまった。  ふと舌先に感じた甘さに苦笑いする。カサカサと音がして、見上げれば合歓木の葉が、おかしそうに揺れているものだから、恥ずかしくなって踵を返すと、石か何かに足を取られて転んでしまう始末。その拍子に擦り剥いたのだろう、膝がじんじん痛かったが、なおさら恥ずかしくなった僕は、起き上がるなり、さよなら! と叫び家に戻ったのだった。
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