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翌日、もうあの巨大なジュークボックスはライブハウスから姿を消していた。週末恒例のライブイベントが始まる前に、オーナーたち大人組が昼間のうちに持ち主の元へ送りつけたそうだ。
それを聞いた光は、わかりやすくがっくり項垂れた。
「全部聴けなかった……」
「え、お前あの中身全部聴くつもりだったの。子守歌にしてあっさり寝たくせに」
勝行に突っ込まれた光は、憮然としながらぼそっと呟いた。
「知らねー曲ばっかだったけど、たまに聴いたことあるのもあったから、なんか懐かしいなーって思って……気づいたら寝てたんだよ」
「光ってホントになんでも聴くんだな。お前の見た目的にはロックとかヘビメタのイメージがありそうなのに」
思ったことをそのまま口にしたのは、開店準備をしていたライブハウスのスタッフたちだ。
「それ、前誰かにも言われたことあるけど。俺の場合は環境の問題だろ。親父が聴いてた曲と、病院で流れてた曲しか知らねえもん。ヘビメタわかんねえ。けど演歌ならわかる」
「え、演歌って」
「津軽海峡なんとかとか」
言いながら光は目の前のピアノにどかっと座り込み、本当に著名な演歌曲の伴奏をメドレーで弾き始めた。周りにいたスタッフたちも「おい光、何弾いてんだ」と笑いだす始末。だが光の耳はもうそれを受け付けない。
自由に既存の演歌ナンバーを弾きながら、途中でジャズアレンジをぶち込んでみたり、昨夜聴いていたボサノヴァの曲を一通りフレーズで演奏しては楽し気に身体を揺らしていた。
「へえ……さすがに演歌は知らなかったな。光の音楽バリエーションにはこんなのも入ってるんだ」
驚いた顔でその独奏会に聴き入っている勝行の声だけが脳に入り込んできた。
「みんなは演歌やらねえの?」
「いや……まあ、ライブハウスで流れるようなジャンルではないね」
「そっか、どうりで」
しっとり流れる切ない演歌を、ノリやすいテンポに上げて指を弾きながら、光は独り言のように零した。
「昔、ずっと入院ばっかしててさ。つまんねえから病院に置いてあるピアノ弾いて遊んでたら、新聞読んでるじいさんとか、お菓子食ってるばあさんが、喜んで聴いてくれたんだ。だから俺も、じいさんたちがテレビで聴いてる歌を覚えて、こうやって弾いて、遊んでた。そしたら歌ってくれるんだ、みんな」
「病院で?」
「ああ、大合唱!」
タラララッ、と鍵盤の上を走りながら、光の指があちこち楽し気に飛び跳ねていく。
つられて勝行もふふっと笑みを零した。
「そっか、光のライブ好きって、そんな幼少期の体験から来てるのかな」
「そうかな」
「きっとそうだよ」
身体が弱く、ずっと入院生活だった光は、幼少期にいい思い出なんてないと言って、あまり過去のことを話したことがなかった。息苦しくなる程の辛い経験が沢山あった分、それを思い出さなくていいよう、過去に蓋をして生きてきた彼だが、レトロなジュークボックスから流れる懐かしい音楽に触れて、ふと楽しかった時間を思い出したのであろうか。
そうやって年上や年配の人に可愛がられて育ってきたから、こんなに破天荒でもどこか憎めない、純粋な少年の心を持ったまま大きくなったのだろう。
勝行に光の気持ちは分からない。けれど少なくとも、どんな音楽にも興味を示し、面白おかしくピアノアレンジして心地よいBGMを作り出していくこの天才児を、やたら甘やかして見守っているライブハウスの大人たちの気持ちは、ものすごくよくわかる。
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